アイモカワラズ

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アイモカワラズ

 ひとくちに北海道といっても、どこもかしこも夏は冷涼で、かつ冬は雪に閉ざされるのが常というわけではなかった。釧路(くしろ)稚内(わっかない)のように年中涼しいところもあれば、帯広(おびひろ)旭川(あさひかわ)のような場所では、夏場になると本州顔負けの暑さになることも決して珍しいことではない。傳法詩織(でんぽうしおり)が住む北見(きたみ)の街も同様であって、夏はオホーツクブルーに染まった空からぎらぎらと陽光が降り注ぐ。その反面、詩織が高校生の頃には、街が大人の腰ほどまでの積雪に埋まったこともあった。  結局は、この街に帰ってきてしまって、もう何年が経ったことだろう。勝手に月日の逆算を始めようとした思考を、詩織は氷が融けて薄まり始めたアイスコーヒーを喉に流し込み、強引に止めた。複合型書店に入ったドトールのテーブル席に陣取って、もうそろそろ二時間半と少しが経とうとしている。開きっ放しのノートパソコンの画面の中には、真っ白なワードのページが表示されている。タイトルバーはソフトを立ち上げた時の「無題」のまま、変化がない。さっきから、スクリーンセーバーが起動するたびに、パッドを指でなぞる作業を繰り返している。無駄なことをしているとわかっていながら、いつまで経っても詩織はそれを閉じる気になれなかった。  地元の高校を出て、札幌(さっぽろ)の大学に進学した詩織は、卒業後は札幌市内の一般企業に勤めた。彼氏――後に夫になった男――もその会社で見つけた。特に不満もトラブルもなく、このままいずれは子供ができて家庭に入るのだろう……と思っていたのは最初の数年間だけで、その日々にピリオドが打たれたのは、夫が突然に緑と白二色で印刷された紙切れを差し出してきた時だった。  俺はひとりの男であるということを思い出してしまった。その言葉を聞いたとき、詩織は、最近のJポップの歌詞でももう少しマシな別れ文句を書くだろうと思った。しかし、それをきっかけとして、その瞬間まで自分の中で積み上げてきた積み木が音を立てて崩れたのは、ある意味で幸いであったとも言えた。詩織がだまって抽斗(ひきだし)の印鑑を取り出し始めたのを見ていた元夫が、口の端で安堵の表情を浮かべたのを、詩織は見逃さなかった。  既に他の女を作った元夫と顔を合わせるのも嫌になって、会社を辞めて北見へ戻ってきた詩織のことを、母親は責めなかった。子供が生まれる前でよかったんでない、とテレビを観ながら言った母親の言葉に背中を押されて、地元でフリーペーパーを発行している会社に滑り込んで、かれこれ三年弱が経つ。ほとんどがただ登録されているだけのメモリダイヤルの中でも、今も北見に残っている友人たちとの交流は続いているし、特段寂しさを感じたことはなかった。けれども、寂しさとつまらなさはまた別のベクトルで存在している。起きて、会社に行き、帰って、眠る。このままでただ田舎で売れ残ったババアの一人になるつもりも、詩織にはなかった。
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