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【十八】巌理
トイレに立った時、巌理は徹夜でしょぼくれた瞳をゆっくり見開いて、そして諦めたように閉じる。
照準を外れた小便が靴にかかったからだ。
名に反して目が大きく幼げな顔立ちに、苦労がしのばれる眼下のクマ。ぼさぼさの髪を無理やり撫でつけたオールバック。中肉中背の標準な体型とスーツ姿は、刑事というよりも仕事に疲れたサラリーマンを彷彿とさせる。
十分、いや、八割分の睡眠をとれたのはいつだったか。
先月、特殊詐欺グループの一斉摘発に成功した。警視庁刑事部捜査二課に所属する身としては大金星と言えた。
しかも、関東を中心に活動している三グループ――【マリーネット】【スティングハート】【グラスバナナ】。この三グループは【金剛組】の対立組織【常盤組】がバックについていた。残るは【ラッキーマーク】か。
このまま捻りつぶしてやる。
警部補として職責と人としての義憤が、眠気で靄ついた脳内を一瞬晴らす。
激情で浅くなる呼吸で喉元がきつくなり、沸騰しそうになる脳内が主な被害者である老人たちの顔が再生された。
老後のたくわえを搾り取られ、泣くことも、喚くこともせず、知らない土地に放りだされたような途方に暮れた表情が、一番巌の心に食い込んで大きな傷を残した。
巌は今年で40(よく20代に間違われるが)。両親は60代だ。わらいごとでは済まされない。
途方に暮れた老人の顔と両親の顔が重なったあの時、自分の中で火をつくのを感じた。怒りとも違う、自分のやるべきことをみつけた確信だった。
だからこそ確実に。
ラッキーマークの背後にあるのは金剛組、というよりも央龍会の瀬名辰也が背後にいる。
それ以前に武闘派気質が強い金剛組が特殊詐欺の片棒が担ぐのが異例なのだ。
ラッキーマークの南雲を瀬名が個人的に気に入っているらしい。さらに、それだけの理由で同じ央龍会直系の常盤組と縄張りをめぐって対立している――困ったことに、組織的な利益よりも己の幸福を優先する人間が一定数存在するのも確かだ。
マル暴(組織犯罪対策第四課)にいる同期は、上記のことを巌に告げて愚痴をこぼす。
半グレの台頭によって犯罪の手口が巧妙化し、捜査の情報共有と分担が難しくなってきた。
『ひと昔なら、詐欺は捜査二課。暴力団の担当はマル暴。しかし、堅気の皮をかぶってヤクザまがい悪質な詐欺をする奴らの担当は?』と。
半グレのグレとは愚連隊のことをさしているが、半分グレーという意味も含まれている。
ヤクザの働きアリになって、稼ぎの一部をヤクザに貢ぎ共生関係にあるヤツラ。
駆除できる人間は作業分担で頭を抱えて対応に追われている。
マル暴がヤクザを締め付ければ、半グレ団体がその分動き。
捜査二課が半グレ団体を締め付ければ、ヤクザは尻尾を切るように、今まで働いてくれた働きアリたちを駆除して知らぬ顔。
根っこを根絶する匙加減が難しく、背後に潜む組織が大きいほど確実性が求められる。
だが……。
尿をすべて出し切った巌は、性器をしまわずにそのまま棒立ちになった。
三件の一斉摘発のきっかけを作った一人の男。
思い出すのは人懐っこい優しい笑顔と、相反する無機質さを感じさせる大きな黒目。
シロアリと呼ばれたあの男を思い出すと、体中の血がざわざわと音をたてて全身の血を送り出し、首筋に氷を押し当てられるような感覚を味わった。
『よかった。オレ、巻き込まれ体質みたいだから、刑事の知り合いが出来て、本当に助かったわ』
助かった。その言葉を聞いたとき、得体のしれない恐怖が巌の胸に広がっていった。
自分がまるで、悪魔と取引をしてしまったような、取り返しのつかないことをしたような。
そんな後ろめたさ。
出会ったきっかけは、通勤途中の駅のホーム。痴漢として電車から引きずり出された白峯は、諦めの悪さを発揮して隙をついて逃走したのだ。
眼前で展開された逃走劇で、巌は刑事としての脊髄反射で白峯を確保するが、彼は冤罪を主張した。
当初は白峯の言葉を信じていなかった巌だが、訴えた女性からある種のキナ臭さが漂っていた。
それからは怒涛の連続で呆気にとられるしかない。
神に愛された? 否、悪魔に憑りつかれたような不気味な幸運によって、まず白峯にちょっかいをしかけた【バナナグラス】が、そして【バナナグラス】から押収したデータから連鎖して【マリーネット】と【スティングハート】が捜査二課の射程範囲にひっかかった。
それと同時に、【常盤組】の代表である篠崎もマル暴が検挙して、央龍会の一角を追い詰めることに成功した。
きっかけは痴漢の冤罪?
なぜバナナグラスの下っ端がそんなことをした?
取り調べで、冤罪をしかけた女が言う。
下っ端の友人が万引きをしようとしたところを、その店でバイトをしていた白峯が見つけて警察に突き出してきた。
その友人は、奥さんから手癖の悪さを直さないと離婚を宣告されており、白峯のくだらない正義感が原因で離婚したらしい。
下っ端の女性は正義や善意が嫌いだった。みながみな我慢して生活すれば静かで平和に暮らせるのに、いつも誰かの正義が自分たちの生活をかき乱して脅かすからだ。
シロアリなんて知ったことではない。
友人の無念を晴らそうと考えたのが、手軽に冤罪をかけて、無罪を証明するのが難しい痴漢行為のでっち上げだった。
まさか、それが端をはっして自分が所属している組織ごと潰されるとは思ってみなかっただろう。
下っ端もその友人も、今は刑に服しているが出所した瞬間に、組織的な制裁が加えられる。
確実に。
そして、残酷に。
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