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【十九】巌理・琴浦信二
思い出すほど、膝ががくがく震えた。
ようやくブツをしまい忘れたことを思い出し、いそいそとジッパーをあげて首を左右にふる。
あれは……。
うまく説明できない、我が身に起こった感覚を形にしようとすればするほどに、輪郭が溶けて全身の皮膚にぴったりと覆いかぶさっていくような。
だが、それの質感はスライムのようで違うような。
積み上げてきたものを横から薙ぎ払われた無力感ではなく。かといえば、運命的な強制力でもない。
ご都合主義という言葉では片づけられない、息をひそめている凶暴な魔物の気配に、はたして何人気づいている?
笑ってくれても構わない、巌は白峯が怖いのだ。
そして、白峯がこれからも自分の人生に関わるという確定事実に、胃のあたりが痛みを伴って重くなる。
「あ、巌さん。お疲れ様です。顔色悪いですよ」
「あ、あぁ。琴浦か。最近、眠れていないからな」
あ、という言葉を挨拶でかわし、トイレに入ってきた同僚は琴浦信二。巌の相棒である。
歳は巌の二つ下38歳。栄養が行き届いていない、艶のない長めの黒髪。痩せて落ちくぼんだ眼下と面長の顔は骸骨のようであり、猫背の長身が死神のような不吉な影を落としている。階級は巌と同じ警部補であり、花と詩を愛でる繊細な神経の持ち主だ。
入れ替わる形で、洗面台で手を洗う巌は、小便器に立ち背を向ける形で鏡に映る琴浦の猫背を見る。
「よく寝むれるポプリをわけましょうか? 今年は温暖化のせいか、ハーブが急成長していっぱい手元にあるんですよ」
「有給の申請が通ればもらう。お前のポプリは俺にはよくききすぎるからな」
「それだけ疲れがたまっているんでしょう。って、小便で床が汚れているじゃないですか。汚した奴はだれですか、まったく……」
巌を軽く無視して口を開いた。相棒の人物評は下手なプロファイリングよりも的確で優秀であり、白峯の冤罪事件において、この男の分析は白峯の冤罪を晴らす一助になった。
「突然ですまんが。佐伯隆と幸内百合に対して、お前の見立てを聞きたい」
捜査資料の略歴では、佐伯がラグビーの有名大学を中退していることや、幸内が監禁まがいのDVをうけていることが記載されているが、もっと踏み込んだ内容が欲しいのだ。
関東で活動していた特殊詐欺の四グループ。残りのラッキーマークの牙城を崩すために、捜査二課がマークしているのが佐伯。そして情婦の幸内だ。
瀬名と南雲は狡猾で、幹部のだれもが猜疑心が強い。その中でも、佐伯は小動物のような用心深さを発揮して【いた】はずなのだ。
うまくいえないが、最近の佐伯の行動は腑に落ちない点が多い。むしろ、警察に察知してほしいといわんばかりに、行動のどこかに粗が目立つ。
裏切りか。だとしたら、こちらも交渉の席を設けることもやぶさかではない。
「そうですね。佐伯がうちと交渉したい素振りを見せていますけど、期待しないほうがいいと思います。どちらかというと、疑似餌にして泳がせた方が得策だと思いますわ。だけど……」
自分とは正反対の意見に巌の大きな瞳が瞠った。
琴浦は背を向けたまま言葉を続ける。
「幸内百合は怖いですね。アレは普通にだめですよ。花言葉でも、白い百合は「純潔」と「威厳」。黒い百合は「呪い」と「復讐」。同じ百合なのにこうもちがうとは」
ため息とともに、尿が小便器を叩きつける音が聞こえた。
「いや、琴浦。花の話じゃなくて」
「いえいえ。名前というのもバカにしたものではありませんよ。写真を見ただけでも、彼女は独特のフェロモンを感じさせますし。これじゃあ、常にムシがたかりそうですね。シロアリとか好みそうです」
シロアリという単語に巌の心臓が跳ねた。
目の前がぐにゃりと歪んで、いやな予感が現実を侵食していく恐怖があった。
「お前、なんて……」
「? どうしましたか? オレなんか、いいましたか?」
「いや、なんでも」
ない。と言い切るまえに、舌先が痺れる。琴浦にとっては些細なことだが、巌にとってはとても重要なことだった。
まるで悪質な法則に囚われたような気分に襲われ、心臓が早鐘のごとく鼓動を繰り返す。
「――っ!!!」
刹那、携帯が鳴り、巌は悲鳴を上げそうになった。
もしも、ここに琴浦の存在が無かったら、その場で絶叫し逃げ出したところだろう。
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