【二十】巌理・琴浦信二

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【二十】巌理・琴浦信二

『もしもし、巌さん。お久しぶりです、白峯です。頼みたいことがあるんですけど、今大丈夫でしょうか』 「あ、あぁ。白峯くんか。俺に出来る事なら……」  トイレのせいか、自分の声が妙に反響しているのが気になった。  用を済ませた琴浦は、巌の様子を察して、手を洗わずに、じっと相棒の様子をうかがっている。まるで猟犬のような訓練された静かさだった。 『じつは今回、美人局(つつもたせ)に引っ掛かってしまって、鶯谷(うぐいすだに)のホテルでひと悶着あったんですけど。その流れで、人を助けることになって』  美人局。捜査資料で拾った単語が、白峯の声で再生されている。  なんだ? これは……。  鏡に映る青い顔。携帯を耳にあてて、地獄の窯をのぞいてしまった後悔に歪んでいる。  怖いと訴える原初の感情。だが、理性が話を聞けと巌に自制をよびかける。  そうだ、落ち着け。  白峯は今、警察の力を必要としているのだ。それは、俺たち警察関係者にとっても悪くない話。俺は金の卵を産む瞬間に立ち会う。それだけの筈だ。  その卵からなにが生まれようが、ただ職務を全うすればいい。  例え、シロアリがうじゃうじゃ産まれようが。  思わず手を口にあてた。  想像してしまい、全身に悪寒が走り吐き気がこみあげてきた。 『それで、オレと彼女を保護してほしいんです。相手がヤクザみたいだし、彼女も自首したいらしいです』 「分かった」  短く答える。これ以上踏み込むな、踏み込んだらこれ以上……。 『あ、百合さん。いや、知り合いに警察がいてね』 「――」    百合。今はききたくない名前に、頭の中が真っ白になった。  これから起こる、ドミノ倒しのようなご都合主義の展開に正気を保つ自信がなかった。  全身から血の気がひいて、ふらりと上体が揺れた。脱力感が全神経にのしかかり、目の前が闇に閉ざされていく。  このまま気絶したら、どんなにいいだろうか。 「ごめんなさい、お久しぶりです琴浦です。ちょっと巌さん、最近根詰めすぎて、今にも倒れそうだったので、オレが変わりました」    突然、相棒が巌の携帯をひったくって一気に畳みかける。   「あぁ、そうですか。では指定の場所は……で。はいはい、今から行くとすると30分ぐらいです。じゃあ」 「…………」  一方的に会話を終わらせた琴浦は、心配そうに巌を見た。今にも死にそうな人間を見たような目で、陰気な顔をさらに陰気に歪ませている。 「すいません。見ていられなくて、お返します」    と、携帯を巌に渡そうとすれば、恐る恐ると携帯を受け取り、ポケットを入れる。  あまりにも怯える巌の姿に、琴浦は内心ため息をついた。  巌は琴浦のことを繊細だと評するが、巌の方がよっぽど繊細だ。 「大丈夫ですか?」 「あ、あぁ。なんとかな……」 「まったく、キモチワルイ運の良さですね。あれには、オレもお手上げです。で、行きますか?」 「行く」  即答だった。それが、働きアリと陰口をたたかれる巌の長所でもあり短所。  やらない後悔ではなく、やる後悔を。どんな状況でも逃げずに突き進む。  例え、それが自滅の道だとしても。    車に乗り込んだ二人は、警視庁を後にした。  街の明かりが地上を照らす夜の道。首都高に入ったあたりでタブレットをいじる琴浦は微妙な表情を浮かべて、運転している巌に語り掛ける。 「すごいですよ。シロアリが騒ぎを起こしたホテル。消防法に違反して、何度も指導を受けています。今回の騒ぎが決定打で、営業停止になるかもしれません」 「チッ。本当に薄気味悪い運の良さだ」  ホテルは燃えていない。しかし、営業停止が決まった瞬間に、業務員たちはどんな行動をとり、判断を下すのか検討もつかない。  消防車の音を遠くにきいて、巌は小便をひっかけた靴でアクセルを強く踏んだ。
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