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【二十二】幸内百合
消防車の音がすごい。
百合はベッドに腰を下ろして窓を見る。
携帯は置いてきた。元々佐伯に買い与えられたものだ。GPS機能がついていたらシャレにならない。
はぁ。と、形の良い唇がため息をついた。閉じた窓から聞こえてくる悲鳴や罵声から、厄介なことが起きていることは確かだ。
百合は視線を部屋の入り口に向けた。入口の近くでは白峯が壁にもたれて立っている。本人は見張りのつもりらしい。
なかなかままならない。
佐伯と佐伯の部下をやり過ごして、近くの警察署にかけこめば、おしまいだと思っていた見通しの甘さ。
警視庁から捜査二課の人間が来るらしいが、なんだか頭の片隅で暗雲が立ち込めてくるような、いやな予感を覚える。
「ねぇ、テレビつけてもいいかしら」
なにか、気を紛らわせるものが欲しかった。
持ってきた佐伯の携帯は、これ以上触ると自分の手が汚れそうだった。白峯の携帯は警察の連絡用として大切なものだ、己の不安を解消するために貸してもらうことは気が引けた。
「いいよ。まだ時間はあるし」
柔らかな微笑みをたたえる白峯に百合はふと気づく。
白峯は常に笑顔を作っている。彼の素の表情が笑顔だとするならば、笑顔の裏に隠された感情を読み取らないと、多くの人々が彼を誤解するだろう。
それとも、誤解されるのが目的なのだろうか。
「ん、百合さん。どうしたの?」
百合の視線に気づいた白峯は控えめに笑って聞く。
やはり笑顔だ。八重歯をちらりと見せて、どこか無防備な印象を与えている。
百合はなんでもないと言いかけて、どこか不思議なものを見るように白峯に問いかける。
「貴方って、ずっと笑っていることに気づいたから、ちょっと気になったのよ」
「笑う……」
白峯は困り笑いの表情で顔にふれた。今気づいたという風で、自分でも知らなかった暗闇を見つけたような、どこか怯えた様子。もちあがっている目元が痙攣して、彼の動揺を百合に伝えている。
「大丈夫。私は怖くないわ。だから、安心して……」
私は。という部分を強調している自分に怖気が走った。
謝ることもなく、自分こそが彼の特別だとアピールしているいやらしさ。
縋りつくような目で百合を見る白峯に、喜びで口角が吊り上がっていくのを感じた。
私は、変わったの?
ううん、違うわ……、だって、とても呼吸するかのように自然に感じるのだもの。
元の自分に戻った。
それが、今の自分を表す状態として適切だと思った。
佐伯の眼を潰した時に思い出したのは、幼いころに兄を殴った瞬間だった。拳にニキビがつぶれて、中身が飛び散った嫌な感触。
罪悪感なんて微塵もない。自分のしたこと、人を傷つけたことに対するショックもない。
どこか淡々とした、事実として受け止められて処理された感情。
即物的で肉体的な不快感のみの、恐ろしく単純な感情が己の内に根付いている。
嫌悪があるだけ、まだマシなのだろうか。
だが、この嫌悪感も鑑みれば周囲の折り合いで身についた、安全装置みたいなのもだ。
本当の自分は自分が思っている以上に、汚い存在なのかもしれない。
不安げに揺れる瞳をぎゅっと閉じて、ごまかすように壁に埋め込まれた大きな液晶テレビをつける。もちろん音量は最小限だ。
飛び込んできたのは、ヘッドライトの光の帯。上空から撮影された映像を、疲れた顔をしたアナウンサーが読み上げている。
『本日、18時未明――首都高速一号線で玉突き事故が……』
「ねぇ。これって表の通りよね?」
と言い。百合は自分の愚かさに気づく。彼は今日初めて鶯谷に来た、そんなことがものすごく遠い過去のように思えてしまった。
白峯は少し慌てた様子でスマフォを耳に当てた。
一言二言小声で会話を交わし、気まずげに(やはり笑顔)にいう。
「渋滞に巻き込まれたって……。乗り捨てて向かうつもりだけど、いつ到着するのかわからないから、最寄りの所轄に保護されて待つか、ここが確実に安全な場所だというのなら、ここで待機してほしいって」
「――そう」
どこか当たり前のように百合は受け止めた。
やはりそんなにうまくいくはずのない認識があったからだ。
逆に白峯の方がショックを受けているようだった。
百合はニュースを見る。外界から隔絶されているこの部屋は、自分の運を何回も賭けて、偶発的にできたエアポケットにすぎない。
この幸運がいつまで続くか分からない以上、行動の方針を固める情報が必要だった。
アナウンサーがニュースの内容を読み上げていくと、ADらしき男が横から現れて、新しいニュースを渡している。
丁度、玉突き事故の原因に言及する場面だった。
【臨時ニュースです。本日、東京都台東区にて、暴徒化した市民が民間人を襲い警官隊が突入する騒ぎとなりました。事態収拾の見通しは立たず、首都高の玉突き事故の原因となった渋滞について……】
台東区とやんわりと表現されているが、映像はまぎれもなく鶯谷であり、電車が止まったのか駅には帰宅難民の人々で溢れていた。
現地に派遣された報道スタッフは、ノイズが走る映像のなかでマイクを握りつつ興奮気味に声を荒げている。
だめだ。早口で聞き取ることが出来ない。
小さな駅舎に収納しきれず、入り口のタクシー乗り場に固まる人々。近くのコンビニではせまい通路に寿司詰め状態で、人々がトイレの順番を静かに争っている。
駅構内の飲食店もほぼ機能が停止し、陸橋まで溢れて零れる人、人、人……。
百合は少し驚いた。上野の隣――快速が通らない鶯谷で、休日とはいえ人々がこんなにいるのが驚きだった。
顔を伏せてカメラにうつり込む人々と、上野に歩き出そうとする人、あぶない。と叫んで引き留める人。耐え切れずに、悲鳴を上げる人もいる。
次々と切り替わる映像の中で深刻化する混乱。電車の電線にドローンの翼が絡まる映像が、警察と乱闘する若者達の映像が、燃え上がる建物が映り込み、そこで百合は身に迫る危機を感じた。
【山手線、京浜東北線全線の運転再開――および、復旧するめどがたたず、テロの可能性も浮上し……】
テロか。今ならどさくさに紛れて、ここを放火すれば佐伯側の問題は解決する。
だが、テレビに映る地獄の様相は、外に逃げるには明らかに高いリスクを示していた。
このまま誰にも見つからず、無事に保護される可能性は何パーセントだろうか。
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