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【二十七】幸内百合・白峯譲
ざぁ。と音を立てて風が吹いた。
夜風に乗る桜の花弁とともに、鶯谷に吹き荒れる火の粉と硝煙の臭い。
篝火のように次々と燃える建物は、周囲と人間を飲み込んで地上にガラスの雨を降らせた。
ここは本当に日本なのか?
駅に身を寄せていた人々は、上野山から見下ろす形で燃える市街地を見た。
交通網がマヒし、消火活動がままならず燃え広がっていく光景。
視界を占めるのは炎よりも圧倒的に黒煙が勝り、息を吸い込めば苦い味が口の中に広がっていく。
このまま唾を吐き出したら、黒い唾が出そうなほどの肺の中に感じるじくじくとした煙の存在感。
身を寄せた人々の中には咳き込む人、えずく人、目に痛みを感じて涙を流すものもいた。
『お待たせしました。お近くの寛永寺で受け入れの準備が整いましたので、皆さま係員の指示に従ってご誘導ください』
人々は涙にぬれた顔を上げた。
駅のスピーカーから流れるアナウンスと、誘導しようと動く駅員と警察官の姿に安堵の表情を浮かべた彼らは、のろのろと動き出して駅から陸橋の上へと移動し始めた。
「帰れるのかな」
誰かの呟きに答える者はおらず、墓地や学校の前を通り、陸橋から目的地へと粛々と向かう姿はアリの行列そのもの。
ハンカチを口に当てて、顔を伏せて、背をまるめて、彼らは指示に従っていく。
それが正解だという思考の依存。
誰が誰かなのかも、思考することを放棄して彼らは隣にいる人間が、どんな姿をしているのか、どんな格好をしているのかも気に留めない。自分たちと異なる存在に気づくことはない。
黒いアリたちに埋もれる別種の存在に。
百合は心細く感じて、白峯の肩に寄りかかった。
ブルーシートが敷かれた寛永寺の境内には、避難してきた人たちが脱力したように無言で座り込んで、不安げに視線を漂わせている。
「大丈夫だよ」
境内の片隅で百合の隣に座る白峯は、そう呟いて優しく彼女の髪をすいた。
守るように抱きしめて、うっとりと微笑する白峯の表情は安らかであり、黒目がちな瞳には澄んだ輝きがある。
助かったという確信と安堵。そして、狂悦。
邪魔者全てを一掃した清々しさが、白峯の胸のうちを満たしていたが、百合は知る由もない。
『帰宅困難者の方々へ、上野公園と最寄りの学校の体育館が解放されました。受け入れ先の準備が整い次第順次』
どこからか、流れてくるアナウンスの音声。激しい混乱の波が去り、落ち着きを取り戻した声音から、事態が収拾へ向かっていることが伺える。
風が吹く。はらりと舞い落ちた桜の花弁が、百合のまつ毛に落ちる。
突然のことで小さな悲鳴をあげる百合。
白峯は愛おし気に顔を寄せて、まつ毛についた花びらを、キスをするようにして取り除く。
「甘い」
「…………」
耳元で嚥下した音を聞き、百合は頬を微かに赤くさせた。
心臓が心地よく脈打ち、こんな状況だというのに、心をときめかせている己に気づいて苦笑を漏らす。
自分にまだ、こんな小娘のような部分があることの発見が、なんだか新鮮でもあった。
ほんとうに、人生って何が起こるかわからないわよね。
もしあの時、ホテルを脱出しなければ、自分たちはここにはいなかっただろう。
まさか、白峯の持っている携帯が百合と佐伯と同機種だったとは、思わぬ幸運だった。
『渋滞に巻き込まれたって……。乗り捨てて向かうつもりだけど、いつ到着するのかわからないから、最寄りの所轄に保護されて待つか、ここが確実に安全な場所だというのなら、ここで待機してほしいって』
これは白峯のブラフだった。
佐伯が携帯を使って盗聴している可能性に思い至り、すぐに脱出したほうがいいと、この時点で彼は決断していた。
次にどんな行動をとればいいのか思案する百合に、白峯は携帯のメール作成画面を見せる。
『百合さん。ごめん、今の嘘だから。盗聴されている可能性があるから、声を出さないで』
ここからは筆談ならぬ、携帯を何度も交換し、往復させながらのチャット状態だった。
そこで、百合は現在の正確な状況を知った。
二人の刑事たちは車を乗り捨てて白峯たちの元へ向かおうとした途中、交通規制をしていた白バイの警官に呼び止められたこと。
現場に急行したい旨を伝えて協力を申し出た所を、白バイの警官は条件付きでバイクを二台、二人に貸した。
このバイクは警察のものではなく、白バイ警官の説得によりその場で協力を得た民間人の物だ。
白峯が電話をかけた時点で、巌と琴浦はバイクに乗ってすぐそこまで来ていた。
百合は携帯を警察に渡すことは断念した。命あっての物種だった。携帯をポケットに入れたままバスローブ脱ぎ捨てて、新しいバスローブを羽織り白峯ともにホテルを後にした。
「だけど、巌さんも固いよなぁ。こんな状況なんだから、超法規的措置くらい、連発しても良いと思うんだけど」
回想に割り込む形で、現実の白峯が愚痴を吐く。
超法規的措置というのは、法が想定していない緊急時において、文字通り法律を超えてとられる措置のことだ。
白峯としては、このまま四人でバイクに乗ったまま本郷通りを経由し警視庁に向かいたかったのだろう。しかし、巌刑事が働きアリと言うのならば、民間人のバイクを二台借りただけでも精一杯なのかもしれない。
巌と琴浦に下された条件は二つだ。
警視庁の肩書をつかって、巌と琴浦に混乱している現場を監督して、自分たちを指揮して欲しいこと。
あくまでバイクは借り物だから、回収しやすい場所に置いてきて欲しい――だった。
そこで適当な場所で落ちあうことを約束し別れた後、白峯と百合は帰宅困難者に紛れて寛永寺にたどり着いた。
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