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【二十八】白峯譲
配布された水色の毛布に包まれて、百合が眠りについている。
屋外でブルーシートの上という悪環境をものともせず、深い眠りに落ちている。
ずっと神経をはりつめ続けていたのだろう。
唇から零れる寝息は深く長く、険のとれた表情はあどけないものがあった。
「百合さん」
呼びかける白峯の声には切実な響きがこもっていた。
このまま彼女をさらって外国に逃亡したい感情と、彼女の願いを支持するべきという感情。二つの感情がせめぎ合い、この男の身体をからめとる。
ようやくみつけた運命の人。
その人と平穏な生活を送りたい。ただそれだけなのに。
「うう……」
「痛い、はやく、痛み止め……」
所々からうめく声、眼前にひろがる野戦病院じみた光景が、白峯に現実を突き付けていた。
想像の上を行く被害――大惨事と言ってもいいだろう。
帰宅難民者に紛れて、寛永寺までたどり着くまで、百合の顔に青白い陰りがおちていた。
つなぐ手は弱々しく、白峯の手を握り返すこともなく、バスローブに包まれた華奢な身体が震えている。
彼女から伝わってくる、怒り、怯え、不安。
その全てを取り除けるほど、万能な存在ではないことを白峯自身が知っている。
警察に自首して保護される。
果たして、それで済むのだろうか。
あの男――佐伯がもたらした惨状が、その引き金が、自分と百合の逃亡だとするのなら、『ほとぼりがさめるまで』なんて甘い考えは持たないほうがいい。
下手をしたら、公安にマークされる可能性がある。
自分は良い。と白峯は思っている。
いつもトラブルの方からやってくる。
好きでヤクザやチンピラ、美人局に絡まれているわけではない。
すきでアイツに『飼われて』いるわけではない。
公的機関に監視されるのなら、その分、トラブルに巻き込まれる可能性が減るんじゃないだろうか。
もしくは殺されるか――というよりも、オレは殺せるものだろうか。
「あぁ……」
思考が飽和して、うめき声が漏れた。
こんなに悩むのは、高校受験の時以来だろうか。
あの時は、まだ自分は普通だった。彼女が欲しいと友達とだべって、日常に飽き飽きしながら、バイトに精を出していた。
思い出せば思い出すほど、後悔よりも色濃い苦い感覚で広がっていく。
あたたかな記憶が引き裂かれて、幻痛にうめく己が百合を手放したくないと叫んでいる。
『お前はこれから、伝説になる。というよりも、ワシ等が伝説にする。なぁに、生きてくれているだけでいい。この国に住んでくれるだけでいい。責任はワシがとる。この国は、若い世代は特に伝説が必要になっちまった。好奇心と恐怖で脳髄を痺れさせる伝説だ』
ばかばかしい、ファンタジーな理論を振りかざした、恰幅のいい男。
悪魔よりも質が悪い存在と取引して、コンクリ漬けにされず、海の放りだされる程度にすんだ。
「これも、アンタのシナリオ通りか? それとも」
今回の件で、シロアリという虚像はさらに具現化されるだろう。
惨劇の度合いによって、さらに肉付けされて、脚色されて、伝説がさらに伝説を飾り付けていく。
そして、なにかがあると、シロアリの存在を疑い、そうであるかのように信じ込み、勝手に恐れていく。
得体のしれない絶対的な存在。本当はそうではないのに、自分とは違う存在の『シロアリ』が独り歩きしていく気配。
増殖していく白い影が、喰い荒らしていくものは――。
白峯は頭の中に広がった、気味悪い幻想を振り払うように首を振った。
百合の安らかな寝息に心が温まり、寝ている彼女の手をつかむ。
白峯の手を握り返さない、小さな白い手。
彼女とともにある、この時だけが自分だけの絶対であり、永遠に続けばいいと考えてしまう。
永遠に閉じ込めて、ずっと自分だけを見つめてほしいと――。
湧き上がる黒い衝動。だが、同時に浅黒い肌を持つ男が、下卑た笑みを浮かべて白峯を嘲笑っている。
オレはお前とは違う。
白峯は確かめるように、百合の手を握り返した。
佐伯の携帯が自分の携帯と同じだと気づいたとき。
そして、百合の携帯も同じだと気づいたとき、白峯の中に生じた強烈な存在。
百合の生活をすべて知りたい。
彼女がなにを話しているのか知りたい。
食べている物を知りたい。
何時にお風呂に入るのか知りたい。
使っている化粧のメーカーも下着のメーカーもすべて知りたい。
知り尽くしたい。
この携帯なら、それがすべて叶うのだ。
アカウントを経由して遠隔操作し、百合自身の携帯を盗聴器に盗撮器にする。
金を積めば、性能の限界まで引き出してくれる改造屋の存在も知っている。
一つ一つ微細なことを取りこぼすことなく、百合のすべてを支配できる。
それはとても魅力的なことだった。
結局一つになることなんて叶わない。
永遠にともにあることなんて、幻想にすぎない。
だとするならば、支配しなければ安心できない。
この瞬間に、白峯の全身に走った不快感の電流。
知りたくなかった、理解したくなかった感情。
ぐつぐつと煮えたぎる、おぞましい共感に白峯は吐き気を覚えた。
自分は、その時、佐伯そのものの思考だったからだ。
その思考を踏まえて、白峯は佐伯がやろうとしていることを理解できてしまった。
オレはお前とは違う。
これは愛なのか分からない、ただの醜い執着だとするならば、この幸せな感情をなんと説明すればいいのだろうか。
佐伯と違うことを証明するために、百合の意思を尊重し続けること。
結論は出ているのに、先送りにする自分の滑稽さ。
彼女が白峯を身元引受人として望むのならば、これはしばしの別れなのだと言いきかせる。
「さよなら、また……」
巌にメールをすると白峯は空を見上げた。
燃えている市街地の方から、未だ白い煙が立ち上っているのが見える。
今頃、アイツが……。
「瀬名さん、一応礼を言うよ。百合さんを紹介してくれてありがとう」
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