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【三十】幸内百合・琴浦信二
一か月後。
『つまり、貴女は佐伯を負傷させた後、トイレに一時逃げた。その後、ホテルから出ることなく、カギがかかっていない――つまり、逃げだした客の部屋に身を隠していたと』
『はい。そのあとの話は、彼から聞いていると思いますが……』
ICレコーダーから聞こえてくる音声に耳を澄ませて、琴浦はパソコンのキーボードを軽快に叩く。
カタカタカタカタと。
視力を排した、音声のみの情報。取り調べの時、琴浦自身も立ち会っていたのだが、やはり先入観がすべてを邪魔していると感じていた。
『佐伯のことは残念に思いますが、私のするべきことは変わりません。捜査にご協力しますし、今まで私の弱さのせいで傷つけてしまった人々に対し償いをしたいのです』
そう、ただ、声のみ。
それだけで、取り調べで見た時とは異なる、彼女の印象。
芯の通った真っすぐな声には、揺るぎがなく、彼女は真摯に己の罪を自覚していた。
それは愚かなまでに、危うくて恐ろしい。
ふぅ。と、息をついて琴浦は首をコキコキ鳴らす。
警視庁捜査二課のフロアには、琴浦以外誰もいない。それもそうだろう、就業時間はとっくに超えて、時計の針は終電をとっくのとおに通り越した。
それでも琴浦は赤坂にある自分の家に、時間をかけて帰るだろう。
歩くことは良いことだ。目的地に確実に進む上に、歩くごとに自分の中にたまったモヤモヤがはれていくように感じるからだ。
――カタカタカタ……。
ようやく報告書の一区切りがついた。
あとはざっと原稿を推敲してデータを保存すれば、家に帰ることが叶う。
家にある、ハーブティーの味を反芻し琴浦は頬を緩めた。頑張った自分へのご褒美に、今夜のハーブティーには牛乳と蜂蜜をたっぷり垂らそうと、そんなことを考える。
使うハーズはすっきり系か、それとも心地いい睡眠をもたらすリラックス系にしようか。考えただけで、仕事で疲れた脳内が喜ぶのを感じた。
滑らかな蜂蜜の甘さが舌先によみがえり、牛乳のまろやかさが涎を誘う。
鼻にぬけるハーブの味と香りのハーモニー。
考えただけで、今の仕事の量と、赤坂までの歩く道のりが、喜びを深くするご褒美に思えてくる。これは、琴浦だけに許される贅沢だ。
人生は死ななければ長くて辛いもの。
楽しみ一つを大切にしないと、生きることなんて、やっていられない。
「先輩も、休んでくれればいいのに」
琴浦はパソコンをのぞき込む。
敬愛する巌の仕事を減らそうと、琴浦が奮闘した報告書のデータの数々。
鶯谷で起こった暴動は、多数の死者と行方不明者を出し、主犯格と思われる佐伯隆が消息不明となって幕を閉じた。
なんともすっきりとしないが、これが一番、丸く収まる方法だということを琴浦自身が承知している。
そして、佐伯隆がすでに生きていないことも。
日本史上最悪のテロリストであり、モンスターであるこの男は、様々な都市伝説を生みながら、現在進行形で人々の心に暗い影を落としている。
これは、じぶんたちの預かり知れないこところで決まっていた予定調和。
まるでタイミングをみはかったかのように、ネットに佐伯の経歴と写真が流出し、付随して、幸内百合の個人情報までネットの海に拡散した。
佐伯の両親はすでに死去し、親戚関係はすでに没交渉となっていたが、幸内側はそうはいかない。幸内百合の薄幸さと同時に、彼女の兄が引き起こした残酷なエピソードは、誇張をない交ぜにして、週刊誌にセンセーショナルに書き立てられることとなった。
幼いころから、弱い者いじめが好き。
飼い犬を殺して、自分の家のぼっとん便所に死体を捨てて愉悦に浸っていた。
それから動物を殺すのが趣味となり、高じて妹のみならず幼い子どもを襲っていた。
次のターゲットは妻と子供だ。と。
マスコミは容赦をしない。表現の自由を盾に、真実を自分の記事で捻じ曲げていくのが好きなのだから。
彼女の兄である英明は、当初、弁護士を連れて週刊誌に書かれたことは、事実無根だと強硬姿勢をとっていた。
だが、人間はやるなと制限すれば、やりたくなる生き物であり、英明は弱者に平気で攻撃できる人種だ。そんな人間が人並み以上の忍耐を発揮できるだろうか。
あの時は、おそらく連日マスコミに追われて気が立っていたのだろう。
ナイフを手に猫を殺そうとした現場を、警察ではなくマスコミに抑えられて、その異様な残虐性を世間にさらすこととなった。
「あと、もう一息」
だから、がんばろう。
ようやく事件の関係者――幸内百合の取り調べが本格的に始まったのだから。
事件から一か月が経過し、警察病院で身体検査も含めて入院していた幸内の方も、ようやく応じられる形となったのだ。
一か月。決して、遅い時間ではない。なにせ彼女は今まで、佐伯の常軌を逸したDVをずっと受け続けていたのだ。
内臓はボロボロであり、自然治癒した骨折の各所が随所に後遺症を残し、夜中にはフラッシュバックに苦しむ姿が目撃された。
さらに関係者を悩ませたのは、彼女の身体に妊娠の兆候があらわれたこと。
本来ならば、彼女の健康に配慮し時間をかけるべきなのだろうが、妊娠したとあっては、時間をかけるごとにお腹子供が大きくなり、時間が経過した分、記憶もあやうくなる可能性があった。
そんな中で、彼女の方から捜査協力の申し出があり、これ幸いと取り調べが開始されたのだ。
世間では一か月は遅いと糾弾するが、こっちからしたら幸内は重要な参考人。いたずらに彼女を追い詰めるつもりはない。
言われなくても、彼女は心と体にムチ打ち戦おうとしている。
自分が知るかぎりの佐伯の罪と自分の罪を懺悔し、法の裁きを受けて、被害者につぐなうことを願っている。
『私は傲慢なの。もう、佐伯のことを話せるのは、私しかいないと思うから。それが、けじめ……』
琴浦は百合の言葉を思い出し、微妙な表情を浮かべた。
彼女も、佐伯がすでにこの世にいないことを悟っているのだ。
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