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【三十三】白峯譲・瀬名辰也
「ん、んー。だけど、聞いている限り、お前の望みを叶えるならば一つ、重大な欠点がある」
言い切る瀬名は口元から笑みを消して、人差し指を白峯につきさした。
「だから、取引材料をもってワシを交渉の場に引きずりだした。ワシがそれに気づいて動くとわかっていたからだ。お前からはワシとの連絡手段がないからな」
気温がぐんと上がり、熱気で呼吸が息苦しくなってきた。
喉がからからに乾くが、瀬名に渡されたペットボトルを飲む気がしない。
薬が入っていない以前に、弱みを見せたらさいご、瀬名に飲み込まれる底知れなさがあった。
「予想通りの取引材料だとしたら、今現在の百合ちゃんの状況を教えよう。――だけど」
そこで、瀬名は言葉を切った。
「いろいろ覚悟しとけよ。百合ちゃんの現状はお前が思っているより悪い」
「っ! そこまで、ひどい状態だったのか……」
ショックを受けた表情で、ベンチから腰を浮かす白峯。黒目の瞳が見開かれて、白い顔がさらに白く、青ざめた唇が震えている。
「やっぱり、アンタの望みは百合ちゃんの現状か。そうだよなぁ、百合ちゃんが死んじまったらもともこもないもんなぁ」
青ざめて無言になる白峯に、瀬名は歌うように言葉を紡ぐ。
「人間ってやつはバカだよな。雨が降る可能性があるのに、晴れることを前提に計画を立てている。ワシの計画だって、震災レベルの地震――南海トラフが襲ってきたらご破算だ。自分、もしくはソイツが死ぬ可能性も考えていないから、いま、こんなに悲しい。あと、五年はぴんぴんしていると思ったんだけどな」
「…………誰か、死んだのか?」
どうして瀬名が喪服を着ているのか、その理由にようやく思い至って問いかける。
「ここから、バスに乗って30分ほどの場所に火葬場がある。ついさっき、見送ってきたところだよ。待ち合わせ場所や時間をこっちが指定した手前、遅れるわけにもいかなかったからな」
それは突発的な死だったのか、瀬名の表情には悲しみの色よりも、現実に追いついていない途方に暮れたものが漂っていた。
「それは、お悔やみ申し上げます」
「いいって、結局死は避けられないことさ。しかも、熱中症だよ。この狂った天気を人間がどうこうできるわけでもない。人間なんて、どうあがこうとちっぽけな存在なんだ。それを忘れるから、前提条件は崩されると、あまりにも脆い」
脆いと呟いた声が、どこかかすれて哀切を帯びている。
気温は37度。太陽が悲鳴を上げて白いバラが咲いている。
瀬名の背後に咲くバラが、まるで供花に見えるのは、火葬場から帰ってきたせいなのだろうか。
「それで、瀬名さんがオレに言いたいことは、百合さんが死ぬ可能性を考えろと」
「だな。とはいえ、正確には4つの可能性がお前さんに待ち受けている。と、その前に、取引の話だ。データを渡してくれたら嬉しいし、その場で携帯を引き渡してくれたら、お前さんが描いている輝かしい未来に惜しみない援助をしよう」
どうだ? 破格だろ?
と、言わんばかりの表情。恵比寿顔にはりつく胡散臭い笑顔と、黄色いレンズの奥で、こちらを凝視している瞳がひどくアンバランスだ。
「わかった言うとおりにする。だから、百合さんがどんな状態なのか教えてくれ」
頭を下げる。みずみずしい後頭部を見つめて、瀬名は「若いなぁ」と感じた。
本当なら、さらに追い詰められた状況を乗りきる為のジョーカーにしたかったはずだ。
しかし、瀬名には果たすための目的がある。その為には、不確定要素を排除する必要がある。
「しっかり、撮れているよ。佐伯がミンチにされている動画データが」
それは、佐伯隆の死を確定させる――動画のデータだった。
シロアリを伝説化させるための要素として、消息不明となった佐伯は都合のいい疑似餌だった。
多くの若者を扇動させ、街一つを火の海に沈めた男。
人々は好奇心から、佐伯のことを調べようとするだろう。なにせ、佐伯は実在している男だ。散りばめられたパズルを集めるような感覚で、様々な人間が佐伯の足跡を追い、好奇心のままに考察し、語り合い、今日に至るまで物語を夢想する。
そこで、気づくはずだ。
鶯谷で遭遇した不条理を。シロアリの存在を。佐伯とシロアリの存在はワンセットだ。佐伯の起こした惨劇が悲惨なほど、シロアリの存在は色濃い影を落とすのだ。
そして、佐伯が消息不明というオカルト的とも通じる事実が、シロアリの存在をさらに際立たせる。
白峯は携帯を瀬名に差し出した。
瀬名は携帯を手に取り動画を再生する。
始まりは宙を回転する場面。
(誰かが携帯を放り投げたのだろうか)
ぐるぐると宙を舞う間、多くの若者たちの顔が映る。
ベッドに拘束される佐伯の姿が映る。
やがて、がちゃんと音を立てて場面が固定された。
横になって映された世界。やがて、場面も横に反転修正されて下半分が黒く、上半分がベッドでリンチにかけられている佐伯の姿が映る。
「こりゃあ、面白い確率だな。引き出に半分突っ込んだ状態か?」
一応音声をOFFにしているが、伝わってくる断末魔。
人が肉塊になり、ミンチになる過程が懇切丁寧に撮影されていた。
そして人として、尊厳を失ったアリたちの顔も。
やがて、自重で携帯が引き出しの中に落ち、場面が暗黒に包まれる形で動画は幕を閉じる。
「この携帯は貰うぜ。データは専門家に消してもらうし、バックアップもないかも確認する。それでいいな?」
「異論はない」
そう、【バックアップなんて】存在しない。
双子の片割れのような、もう一つの携帯を使わない限りは――。
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