40人が本棚に入れています
本棚に追加
【三十五】白峯譲・瀬名辰也
ねぇ、百合さん。不安なんだ。
この二か月間、ずっと貴女のことを考えていた。
巌さんや琴浦さんが、いろいろオレに教えてくれたけど、どれもこれも耳を素通りして脳内にとどまらない。
しばらく面会できないと巌さんから伝えられて、どうしようもない虚しさに襲われたんだ。
いやなことばかりずっと考えて、あの動画を見てから、オレの中でなにかが崩れそうなんだ。苦しいんだ。
オレが思っている以上に、佐伯と百合さんとの関りが強くて、深くて、バカなオレはどうすれば、百合さんをオレだけの方に向いてくれるかをずっと考えていたんだ。
お願い、独りよがりなオレの願いを誰かきいて。
「苦しそうな顔だなぁ。おい。そんな顔してちゃぁ、百合ちゃんは守れないぜ」
「わかってる。それで、百合さんは……」
「佐伯のバカが、散々百合ちゃんを嬲りものにしたせいで、体の中がほとんどボロボロだよ。後遺症もあるし、おまけに妊娠した。男どもは孕ませる行為が殺人に等しいことを知るべきだな。女の身体が、どれほどのダメージを受けるのか考えようともしない」
ひゅうと、喉の奥が音を立ててこわばった。
口の中が一気に乾いて、予想もしない単語に、今更動揺する自分がいる。
妊娠……? まさか。
思い出す、ホテルで百合さんを愛した時の喜び。
お互いの境界線が分からなくなるほどの快楽の中で、お互いの心臓が深い部分で繋がった気がした。
まさか、あの時に。
「オレの子だ」
「おいおい、それは早計じゃないのか?」
窘める言葉に白峯は首を振った。
「いいや、オレの子だよ。確信しているんだ」
言葉では説明できないもどかしさで、どうにかなりそうだった。
百合さん、百合さん、百合さん……っ。
理性のタガが外れて、制御不能な衝動を思い出す。
彼女を孕ませたい濃密なドス黒い飢餓感。穢して、支配して、永遠に傍にいたいと切望する攻撃的で醜い感情。
こんなのは、愛じゃない。
「瀬名さん、百合さんは本当にオレ好みの女でしたよ。自分でも、意外なほどに彼女に狂っているんです」
「だな。ワシの見立て通りだな。計算違いなのは、うまく行き過ぎたことだな」
はぁ、と。分厚い唇からため息が漏れた。
「まったく。最近の若者ときたら、性急すぎてかなわんよ。いろいろお膳立てしてやったのに、まさかの結果が火の海なんだからな。打ち合わせと違うとおもんだが?」
瀬名は舞台を整えた。
佐伯から百合を引き離し、しかるべき制裁をかければそれで充分。
不安定だった白峯も運命の女と出会えて、ますます瀬名に貢献する働きアリになると目論んでいた。
が、所詮シロアリはシロアリ。黒いアリにはなれないのだ。
「……そのことは謝罪します」
そう、すべては打ち合わせ通りの内内に収束する話。それをややこしくしたのは、明らかに白峯の落ち度だ。
神妙に再び頭を下げる白峯は、最後に最後に別れた時の、彼女の顔を思い出そうとする。
「待っているから、元気でね」
向けられる花がほころぶような笑顔。悲壮感の欠片も感じさせない、風に中へと透き通る声と顔。巌と琴浦に連れられてパトカーに乗る彼女の背中は、百合の茎のごとくすっと伸びていて、白峯はただ立ち尽くすしかない。
待っている。
その言葉に縋りつく。
元気でね。
その言葉に不安になる。
「でも、これだけは信じてください。オレは彼女を守るために最善を尽くしたつもりだ」
「わかったわかった。お前さんの自己弁護はさておき、百合ちゃんの状況から、これから起こる可能性は4つ。
一つは、腹の子供が駄目になって百合ちゃんが助かる。
二つは、百合ちゃんは死ぬが、子供は生き残る。
三つは、二人とも助かる
四つは、二人とも死ぬだ」
「…………医者の見立てでは?」
「さぁてな。産む産まないは、結局百合ちゃんしか決められない。自分の命をかけた選択肢だ。せめて、彼女の意思を尊重してやってくれ」
「オレはそれだけしかできないのか?」
「ばーか。それはてめぇの頭で考えて、行動しないと意味ないんだよ。ちゃんと手続きを踏んで見舞いに行ってこい。百合ちゃんの負担を考えて行動すれば、あの若い刑事二人だって鬼じゃないはずだ。惚れた女に会いにいくんだ。その程度で怯むんじゃねぇっ!」
ばんっ! と、瀬名はテーブルを叩いた。
お仕舞いの合図だった。
最初のコメントを投稿しよう!