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【三十八】幸内百合
『ねぇ。なんで、こんなことをするの?』
そんなことをしなくても、私は貴方を大切に想っているのに。
『……お前が知る必要はない』
答えることを拒否する佐伯の背中に、百合はこれ以上問うことを辞める。
美人局は佐伯にとって何だったのか、楽しかったのか、興奮していたのか、それとも切実になにかを求めていたのか、もう、確かめるすべはない。
すべて終わった。
そして始まった。
ここは静かで、百合を脅かさないよう配慮が行き届いている。
清潔で優しく、温かく、それでいて寂しい。
ネットを見ることも禁止されて、行動も監視されているが、佐伯との生活に比べたら快適そのものだ。
佐伯に管理されている息が詰まるような生活から解放されて、こうして、ベッドで安静にしていることを許される自由さ。
今日の取り調べが終わって、すこし気が緩んだらしい。
入院している警察病院に帰り、医者にだるさを訴えれば、優しい笑顔と共に解熱剤が処方された。
薬を飲んで横になる。
たちまち、体中の力が緩んで安らかな眠気が体中を繭のように包んだ。
この時だけは、煩わしい現実から逃れられる解放感。疲労に耐えていた神経が、小躍りしながら意識を現実から引き離し始め、取り調べの間に悲鳴を上げていた脳みそが百合の意思より早く、睡眠を優先させる。
ここが完ぺきに安全だとは思っていない。
だけど、命を脅かされるほどの脅威を今のところ感じない。
「不思議ね……」
妊娠していると告げられても、百合の心は波風一つ立たなかった。
あぁ、やっぱりという、確信と安心があった。
なにせ、つい最近まで美人局で佐伯も含めて、不特定多数の男たちに抱かれていたのだ、妊娠も覚悟していたことだった。
医者は性病がないことに驚いていたが、それは佐伯が、性病に警戒していたからにすぎない。行為をした後に、様々な薬を飲まされてきた。多分、その薬のせいだろう。
医者に、どんな薬を飲まされていたのか聞かれたが、薬の色と、飲んだ後に下痢や吐き気に見舞われたことを訴えることが精いっぱいだった。
もしかしたら、避妊薬も飲まされていたのかもしれない。
自分はこれかどうなるのか。
それ以前に、健康状態がどうなっているのか。
後遺症の説明を頭に入れて、動いたときに感じる不具合と難儀さに不安にとらわれることもあった。
百合が把握している状況は、周囲の配慮もあってか曖昧だ。
その上で出産のリスクを説明されて、医者からはくれぐれも浅慮な行動をしないようにと釘を刺された。
『これは、あなただけの問題ではないのだから』と。
暗に周囲のことを考えろという念をおす。
その言葉に含まれているのは、今回のことで係わった医療関係者、警察、社会的なことをふくまれているのだろう。
だけど、正解なんて存在しない。
子を産むことも、百合の生死をわけることも、どう転ぼうとも結局、神様ではない限り正解なんてわからない。
百合は目を閉じたまま腹を撫でた。
まだ実感がわかず、ここに命が宿っているという単純な驚きがあった。
――ねぇ、タロ。私、お母さんになるのよ。信じられる?
ワンっ。と、返事を返された気がした。
「………っ」
一瞬、息が詰まりそうになる。
これは薬の影響による幻聴なのかもしれない。
もしかしたら、向こう側で百合のことを見守っていた愛犬が、ひょっこり顔を出したのかもしれない。
懐かしい柔らかな感触が、百合の身体に身をすりよせている気配。
その感じる面積が、とても小さいことに気づいて百合は切なくなる。
私はこんなに大きくなったのだ。
おかしな話だが、今更、自分が成人をとっくに超えた大人だと認識できた。
「もう、大丈夫だから」
呟いて、鼻の奥がつんとなる。
これが恐らく、別れの言葉だった。
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