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【三十九】白峯譲_最終回
穏やかな静寂の中で、白い小舟が揺らいでいる。
乗せられている彼女が、この場にとどまってるのは、もしかしたら奇跡なのかもしれない。
過酷な現実を百合自身が、どういう風に受け止めているのか白峯には分からない。
それは彼女を知らないから。実際に彼女がどんな気性で、どのようなことを本当に好むのか、彼女に関する情報が少なすぎて、イヤな方向にばかり想像が働いてしまう。
『10分だ。記者にここがバレた。別の病院に移送する準備があるから、10分程度なら誤魔化せるだろう。さっさといけ』
苦々しいながらも、巌は白峯の面会を黙認してくれた。
それは、シロアリとしての強運ではなく、真摯に訴えて白峯自身が掴み取った時間だった。
そっと、控えめにノックして、返事のないままに静かに部屋に入る。
ただ様子を見るだけだと言いきかせつつ、百合の横たわるベッドに近寄り、彼女の安らぎを壊さないように穏やかな静寂を守る。
百合さん……。
近くの椅子を引き寄せて、ベッドの近くに座る。
寝ている彼女の顔を眺めて、そして、視線を彼女の腹の場所へスライドさせる。
ここに命が宿っている。彼女の生命を吸い上げて、寿命を搾取している元凶が。もしそれが自分の子種だったら、【あの時】の幸福の代償として大きすぎる。
ねぇ、百合さん。オレは、この子を……。
口に出した瞬間に、その先を思考した瞬間に、すべてが壊れそうだった。
知らずに眠っている百合。
警察に保護されたおかげか、出会ったことより肌の色艶がよくなり、頬がばら色に輝いている。血色の良い唇は花びらのようで、白髪が増えた髪はみすぼらしさを感じさせず、窓から差し込む光に冴え冴えと輝いていた。
出会った頃より魅力が増し、みずみずしい白百合のように静かに咲き誇る愛しい人。
オレは彼女を救いたい。だけど、本当のところは、彼女を使って、自分を救いたいのだ。
「……白峯君?」
うっすらと目が開く。白峯の名を呼ぶ彼女の瞳の焦点が合い、唇がゆっくりと微笑の形を彩っていく。
――会いたかった。
そんな風に思うのはうぬぼれだろうか。
「ごめんね。こんなみっともない格好で」
上体を起こし白峯に、着ているパジャマをつまんで見せる百合。化粧をしない素の顔は、溌溂としていて生きようとする力強さを漲らせている。
「そんなことない。素敵だよ」
すっと言葉が口から零れる。今まで脳内に渦巻いていた感情が、彼女の前で吹っ飛ぶのを感じた。わかりやすく言えば真っ白だった。
頬のところが熱く、全身の血がざわざわと音を立てている。
「ねぇ、百合さん」
「うん。産むわ」
言うよりも速く、思考を先回りされてしまった。
絶句する白峯を瞳にうつし、百合は悲壮さを感じさせない。まるで、すでに決まりきったことをなぞるように、しっかりと自分の答えを口にする。
「この世には、死んで当然の人間がいる。だったら、生きて当然の人間もいるはずよ。この子の父親が誰だろうと構わない。甘いと笑われるかもしれないけど、私はこの子を祝福したい」
「後悔しない?」
「するわ。だけど、その後悔は何度も思い出して悔いるような、尾を引くものじゃないと思う。そこに、納得があるから」
静かに腹に手を当てる彼女は、ゆるがないものを感じさせた。
どんな困難があろうとも、彼女を真の意味で脅かす存在はもういないのだ。
白峯が彼女を守る必要なんてない。だけど……。
「ねぇ、保証人の話、覚えてる?」
その言葉に、どんなに嬉しかっただろう。
どんなに救われただろう。
彼女と共に歩く未来に、自分は存在を許されているのだ。
「うん。瀬名さんと、いろいろ手回ししているんだ。あとは、百合さんの望み次第かも」
「そう、だったら、暖かい所が良いわ。それで、水道が整っていて綺麗な場所が良い」
目を細めて具体的に語る百合に、白峯は週刊誌に書かれていた内容を思い出す。
彼女の故郷は水道管が凍って壊れるほどに冬が厳しく、常に汚水の匂いが漂っていたという。
故郷とは真逆の新天地に、彼女はどんな生活を思い描いているのだろうか。
「うん。三人でいこう」
だから、どうか。
すべてを食い荒らすシロアリが恋をした。
百合の手に自身の指を絡めた白峯は、ささやかな祈りを捧げて未来を望む。
泣きたくなるような、笑いたくような、切なる感情。
黒目を細め、八重歯を見せて微笑む顔には、人間的で複雑なまぶしさがあった。
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次回のエピローグで完結です。
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