逃げてきた男

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 どんな見返りを期待していたのか、自分でもよくわからない。  でも、チラつくのは燃え盛る屋根と赤い夜。封印した開かずの押し入れが、ガタガタと音を立てて俺を追い詰めようとする、(おぞ)ましい光景。  そうだ。はっきり言えば、俺は病んでいたのだ。  彼女の匂いも体温もなくてはならない刺激となっていて、俺自身が彼女の身体によって満たされなければ眠れなくなっていた。睡眠導入剤にしていたのは、俺も同じだったというわけだ。  散々乱れ乱して、朝になれば彼女よりも早く目覚めてシャワーを浴びて、服を着て。彼女を起こし、朝食を作って食べさせ、仕事へと送り出す。そんな愛人生活は、二年も続いた。  なぜそうまでして、彼女の奴隷のような役目を演じ続けていたのか本当にわからない。  社長と彼女の結婚式には、俺だけ呼んでもらえなかった。他の社員は全員参加なのに、社長は許してはくれなかった。そりゃそうだ。妻となる女の愛人が式に来るなんて、気味が悪いよな。  でもこれをきっかけに、俺と社長とその妻の三角関係が周囲に気付かれ始めた。  ある時、社長が缶コーヒーを手に俺に近付いて来て、言い放った。 「俺の女を満足させてくれる君はもたまには肉料理も食えよ。ずっと一人の女だけを抱くのはキツイからな。あいつほど性欲の強い女は知らないが、そこが彼女の魅力であり、俺は彼女を手放すつもりもない。彼女に意欲と生命力を与えてやることが君と俺との契約だ。いいか、自分の仕事を忘れるな? 君は彼女にとってご褒美なんだ。俺にはできない役回りだから、本当に君が羨ましいよ」  そんなに愛しているなら、なぜ愛人を与えるのか。そして、直接俺に会社を辞めるように働き掛けないのか。全く何を考えているのかわからない人だ、社長は。  彼は、秘書の女の子とも深い関係であることは社内では有名だった。その女の子からも、ひょんなことから話を聞かされていた俺は、かなり嫌な気分になった。社員を私物化しているようで、そんな男と結婚した彼女も同類な気がして、拭いきれない嫌悪感をこの時はっきりと感じた。  裏切られたような怒りが彼女との逢瀬(おうせ)に黒い狂気を差し込んできて、俺は自制することもせず彼女が本気で泣き叫ぶまで、苦痛と快楽を与えた。その後で、 「もう、いやだ。もう…、こんな気持ちであんたを抱くなんて、嫌だ」  情けないほどみっともなく泣き崩れていた。  笑顔も魅力的なキスもなくなった俺達は、もう限界だった。  不眠症の原因は、そんな悪臭が漂いそうなほどの狂乱の宴の後始末が起因している。自業自得だ。  二十代前半の盛った男が吐き出す欲望は、もしかすると性欲が強すぎる彼女以上のものがあったのだ。でなければ、二年半に及ぶこんな狂った関係を継続できるわけがない。元々仕事は滅茶苦茶忙しいのに、寝る時間を削ってまで女を抱いていたのは、俺だ。  その後。俺は突然失った捌け口を求め、ふらふらと夜の街で寂しい女に目星をつけては一夜限りの関係も結んだりもした。背が高くて顔さえ良ければ女の方から近付いてくる。彼女を忘れるために、俺は何十人とも寝たが、何の慰めにもならなかった。  眠れないのはそんな理由からだ。  禁欲して、自分で自分を縛り付けて、襲ってくる衝動と欲望に逆らいながら。痩せて、体力削っているこの地獄を終わらせないと、本気で俺は孤独死しかねない。  そこまで追い詰められて、俺は、都会から田舎へ逃げる決意をした。  どうやって仕事をやめたのか。どうやって引っ越ししたのか。どうやって、次の仕事を見つけたのか。あんまり覚えていないけど、十年ぶりに頼った姉貴が、俺の力になると言って助けてくれた。持つべきものは、血を分けた姉弟だって初めて感じた。  美大に受かってから自力で学費を捻出してきたけど、最初の一年目を助けてくれたのは年上の姉貴だった。彼女に、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないと考えて、俺はいつの間にか疎遠になってしまっていた。心配かけられないという思いが、疎遠の原因になるなんて。どんだけ思い込みが強かったんだろう?  そんな極端で不器用な俺を、いつも案じてくれた姉貴の幸せを、壊したくはない。だから、どんなにメンタルが辛くても泣き言いたくなっても、俺はグッと腹に力を入れて、自分の面倒は自分で見ようとがんばった。もしかしたら、これまでの人生で一番がんばっているかもしれない。  久々に通帳記帳したら、吃驚する金額が入金されていた。退職金とよくわからないお金が二百万円。残高が一千万円を超えている。勤続六年で、時々歩合制の臨時収入もあったから、俺は気付かない間にかなり蓄えを作っていたのだろう。  もう、要らない。もう、東京で手に入れたものは全部、ここに捨てていく。  心機一転、人生ゼロからやり直すには、それぐらい極端なところから始めて行け。  家電も家具も寝具もブランドのスーツも靴もカバンも時計も全部捨てて、ほとんど丸裸で北海道までの片道切符(航空券)を買った。  十年前と逆行するなんて、十年前の自分に教えてやりたいよ。  自虐的な気分になると、無性にタバコがすいたくなる。タバコを吸うと、無性にセックスしたくなる。だから禁煙することに決めていた。  こんなに汚れて惨めったらしい自分と決別するために、俺はヨレヨレの不健康な体を引きずるように北海道へ逃げたわけだ。  昔住んでいた馴染みの町へと向かう。懐かしい、匂いがした。  北海道は同じ日本とは思えないぐらい空気がうまい。天然の氷のような味がする雪景色が、遠い過去の記憶を頼んでもないのに連れてくる。両親が生きていた頃、家族で行ったスキー場の思い出や、動物園の思い出が、脳内スクリーンに流れていく。もうこの世にいない二人の顔がのっぺらぼうだったが、気にしてられない。  新千歳空港は拡張したらしく、やたらとデカいターミナルになっていた。観光客も増えて、俺が知っている風景とはすっかり変わっている気がする。時間だけはしっかりと経っているのだ。 「そういえば迷い猫を拾ったような…」  ふと、ひたすら可愛い子猫を抱いて癒された記憶が押し寄せた。手に残された感触を握りしめる。不思議な気分で、自分の拳を見つめた。  十年は大きい。ちっとも変っていない風景と、がらりと変わり過ぎて元がどんなだったのか全然わからない風景が混在している。  俺を癒した子猫は、どうしているんだろうか? 生きているんだろうか?  頼りないぐらい柔らかくて小さな身体。微かに思い出す体温と匂い。もう一度この腕に抱いて俺を癒してくれ…。そんなことをぼんやりと思いながら、タクシーで故郷へ帰る。運転手が何か話しかけてくるけど、疲労と睡魔でぼうっとした頭ではまともな返事も出来ずに、俺は小一時間のドライブを夢うつつにやり過ごした。  行先は、姉貴の職場。町立病院だ。  今やこの町の人口は減少傾向にあるらしく、俺のような年齢の者が住民票移動届を持っていくと色んな特典をくれるらしい。姉貴はそんなことが気になるらしい。貰えるものは貰っておけ、と言う。俺はどっちでも良かった。  姉貴が先に見つけて契約してくれた新居に行き、姉貴の車を借りて家電や布団を買いに走った。身一つで引き上げてくると、やることが多い。姉貴の旦那さんとも初めて会う。  俺が高二の冬に、両親を火事で一度に失くした俺達は、すでに家を出ていた姉との話し合いによって、火事で焼失した自宅の目の鼻の先のアパートに一人暮らしを始めた。  時々来ては世話を焼いてくれる姉貴は、俺より五歳上でしっかり者で、当時付き合っていた彼氏と同棲をしていたから、俺はそんな手狭な愛の巣に居候するつもりは欠片もなく。むしろ、両親に反対されて家出した姉貴の彼氏には、意地でも会いたくなかった。  たった一人の肉親を返してくれない意地悪い男だと決めつけて、俺は最初から最後まで顔を合わせることを拒否していた。結婚十年目でやっと嫁の弟と顔合わせ。俺が偏屈で不器用だった証拠だ。自分でさえも、当時の気持ちは理解できない。  十年経ったとはいえ、姉貴はあまり変わらなかった。姉貴から見ればやつれた俺は、高校生当時に戻ったようで違和感がないという。確かに、古い写真を見せられたときに自分でも少し同意した。髪の長さも色も、高校生の頃と全く一緒。体重もたぶん一緒ぐらい。鍛えて引き締めた美貌はもうどこにもない。  ヤク中ならぬセックス中毒になった俺は廃人なんだ。さすがに、そんな真実を実の姉貴には話せない。俺はただ、人生に行き詰っているとだけ伝えた。仕事もやめて、新し人生をやり直したいのだ、と。  気の優しそうな義兄と軽くビールを煽りながら、姉貴に渡されたアルバムをめくっていく。高校三年になる少し前に、拾ったと記憶していた子猫の正体が映る写真を見つけて、俺は目を疑った。  俺の膝の上には、小さな女の子。  俺は彼女を背後から抱きしめている。照れ笑いを浮かべ、カメラ目線で映るこの子は。 「名前、なんだっけ?」  俺が思わず声に出すと、姉貴が嬉しそうに隣に座って言った。 「かりんちゃんよ。季節の夏に、鈴って書いて、夏鈴」  そうだ。子猫のような名前に、あの柔らかさ。  あの感触が、手によみがえってくる。  どこを触ってもモチモチとして気持ちがいい。滑らかな肌の質感と、柔らかい骨格でどんな抱き上げ方をしても安定感があった。 「親戚の子…?」 「あんた! 忘れたの? ビックリするわ…。夏鈴ちゃんはあんたが吹雪の夜に発見してあげた子でしょ? 私の先輩の子だったのよね。母子家庭で一人っ子だったから、一人暮らし始めたばっかりのあんたと意気投合して、まるで本当の兄妹みたいに毎晩一緒の布団で寝てたじゃないの」  そう言われると、段々と記憶が蘇ってくる。  俺は夏鈴を抱いて寝るのが好きだった。  そうか、あれは子猫じゃなくて、子猫みたいに可愛い女の子だったのか。 「なんで、忘れてたんだろう…俺」  俺は自分の記憶力を疑い出した。廃人になったぐらいだし、記憶も引っ張り出せない脳みそに劣化しているのだとしたら深刻な事態だ。 「そりゃ、忘れたくもなるんじゃない? たった一年、されど一年。あんたは大学受験を夏鈴ちゃんに何も言ってなくて、合格が決まった途端に別れ話になったんだよ。もうね、見てられないぐらい落ち込んで大変だったんだから」 「誰が?」 「もちろん、夏鈴ちゃんよ。あんたのせいで、友達も作らなくなっちゃたんだよ? 全く、どう責任取ってくれんのよって話よね。先輩には本当に申し訳ないことしたって焦ったんだから」  俺は写真の中の少女を見つめて思った。姉貴の愚痴はどうでもいい。  この子、今どこにいるんだろう―――と。
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