愛しの子猫ちゃん

2/2
184人が本棚に入れています
本棚に追加
/20ページ
 買ってきたばかりの食器や台所用品を並べて洗った。まだ届かない洗濯機と冷蔵庫とテレビ。ストーブは設置されていて、屋外に大きな灯油タンクがある。姉貴が満タンにしておいてくれたおかげで、暖房だけは心配いらない。明日は、家具も見に行かないと。  時速八十キロで走行できる無料の高速道路を使っても、片道四十分。往復で一時間半程度かかるドライブは、思ったよりもキツかった。  どっと疲労を感じて、布団の上にごろんと横になる。  姉貴から電話がくるまで適当に時間を潰せるものといえば、パズルしかない。でも、今そんな気分じゃない。  結局、僅かに開いた時間もうまくつぶせない俺は、最寄りのコンビニまで散歩することにした。  車が往来する道路なら剥き出しアスファルトで歩きやすいけど、すこし脇に入ると根雪が土を覆い隠している。少し踵の高いブーツを履いた俺の脚は雪道の歩き方を少し忘れてしまっていたようで、何度かツルっと滑って、こけそうになった。  コンビニに入ると、おでんを買ったばかりの幼い子供連れ親子が丁度ドアのところですれ違った。マットに躓いた小さな女の子を、咄嗟に受け止めた。  女の子は四歳ぐらいで、突然見知らぬ男に抱き留められたというのに無邪気に笑っていた。  小さな手、小さな身体、軽いけど重い存在感。  一瞬だけど、この子から伝わってきた人ひとりの感触に、脳がスーッと冴えていく不思議な感覚が全身に広がる。  夏鈴。  近くにいるんだから、会いに行こうか…。  いや、どんな顔をして会いに行けば良いんだろう。わからないけど。  居てもたってもいられなくて、俺は何も買わずにコンビニを出ると当時彼女が住んでいたアパートまで足を運んだ。そこはもう建物がなくなっていて、雪に覆われているだけの空間になっている。周辺一帯はもうあまり建物がなくて、あったとしても空き家ばかりが目についた。  過疎化する小さな漁村。  十年前も寂れていたけど、もっと寂れてしまった気がした。  そこに真っ赤なヤッケを着た子供が走り込んできて、真っ白い雪の絨毯に身を投げ出した。小学一年生ぐらいの少年が無邪気に雪に自分の跡をつけて面白がっている。自分にもこんな時代があったはずなのに、子供と大人。いつから俺は線を引いてしまっていたんだろう?  夏鈴が泣いていた夜を、思い出す。      *  しんしんと積もりゆく雪の夜、遠くで猫が鳴いているような声が聞こえてきた。  学校から帰宅途中で今夜の夕食に店屋物と即席めんを買った俺は、カバンとスーパーの袋を両手にぶらさげて雪道を黙々と歩いていた。除雪車が来ないとあっという間にひざ下まで降り積もる雪。雪用の靴だとしても、深さが増すとそれだけ靴の中が湿ってきやすい。寒い上に足が濡れるのは不快で仕方がなかった。  早く家に帰りたい。  普段通らない近道のつもりで、地元の人以外知らない抜け道を行くと、雪の中に膝をついて泣き叫ぶ少女がいた。  猫じゃないのか。  それにしても、どうしてあんなに悲しそうに泣いているんだ?  泣き声が力強くなる。  唸り声のような、悲鳴のような、魂が叫んでいるような。  そんな音域で全身震わせて泣いていた。  しばらく立ち尽くしてしまっていた俺は我に返り、荷物を捨てて駆け寄った。  雪の中にどれほど座り込んでいたのか。  なぜか、片方の靴を履いていない。  真っ赤な頬っぺたと剥き出しの指が、その色とは対照的に酷く冷たくて、俺は焦った。  咄嗟に彼女の脇の下の両手を差し込んで持ち上げる。思ったよりも軽く、そして重たかった。  すぐに自分の胸に引き寄せて、手をお尻の下に回して抱っこの体勢になる。 『俺が来たからもう大丈夫だ!』  自分でも不思議なぐらいスマートの出てきたセリフ。キザで格好悪い気がしたけど、この小さな女の子を安心させてやりたくて、俺は初めて出会った少女を無我夢中で抱き締めていた。  雪の中途方に暮れていたらしく、気力を失くしかけていたのか返事もできそうにない状態だ。俺は急いで自宅へ連れていき、暖房をつけて彼女をゆっくりと温めた。下手すると凍えて死ぬところだ、と思ったぐらい、冷えていた。  すこし落ち着いたところで、買い物袋とカバンを取りに行く。そして暖かい食事を用意して食べさせた。  その間に、彼女が失くしたという片方のブーツを探す。説明を聞いて大体の場所に目星をつけたら、案の定そこに転がっていた。沢山の雪を被り、雪原に飲み込まれる直前のブーツを拾い上げて戻ると、熱々のラーメンを美味しそうに食べる彼女が待っていた。  人がいる部屋は久しぶりで、俺は彼女の存在に救われた気がした。  まだ名前も聞いていない。そのとき、俺の脳裏に浮かんだ愛称は『子猫ちゃん』。  そう呼ぶと、子猫ちゃんは少し照れくさそうに控え目に微笑んだ。  落ち着いた頃、やっと電話を掛けたいと言い出して、その時初めて彼女の名前を聞いた。  波戸崎(はとざき) 夏鈴(かりん)  美しい、響き。  そして、この極寒の季節とは真逆の夏の字が入った名前。  彼女は初夏の時期に、生まれたそうだ。  俺の中で子猫の印象が強い夏鈴は、人懐っこい笑顔で甘えん坊で、すぐ俺に抱き着いてきてじゃれたがる。姉しか姉弟の居ない俺には、新鮮な関係だった。  母子家庭で母親は姉貴と同じ看護婦をしているため、孤独な留守番をしてきた少女は、八歳の割に独特な落ち着きを感じさせた。  どこか自分と重なる気がして、俺は夏鈴を本当の妹のように、愛した。  求められれば一緒に過ごし、寄り添って眠る。キャンプも行ってみたいと言われれば、小さなテントと夏鈴を連れて、二人乗りバイクの初心者ツーリングで遠出もやってのけた。俺が小さい頃、親父がそうしてくれたように、俺も夏鈴に楽しい思い出を作ってやりたかった。  二人で見上げた夜空には、ヤバいぐらい綺麗な天の川と果てしない宇宙が広がっていた。  真夏でも深夜にもなれば北斗七星が見え、その二つ星を辿れば北極星が見える。夏鈴は北極星がやたらと好きな子供だった。  俺が夏鈴の孤独を癒せば、俺自身の孤独も癒せる。そんな理想的な関係にしばらく夢中になっていた。忘れてかけていた家族の体温を呼び覚ます、夏鈴の存在。確かにあの頃の俺達は、実の家族よりもずっと深く強く、支え合っていたと思う。  健全な精神だったからこそ、小さくても女の子らしい夏鈴を抱いて眠れたのかもしれない。  今の俺が、彼女を当時のように純粋な気持ちで抱いて眠れるのか、そんなこと考えなくても答えは出ている。夢の中で抱きしめた夏鈴の表情はフィクションとはいえ妙にリアルで、その後何度も思い出しては抜いたんだ。散々穢してる。俺、最低な大人になったもんだ。  あの美しい思い出が、欲望に塗れた男になった俺が全部塗り替えてしまうのは、とても罪深い気がする。  夏鈴に会いたいけど、会わない方が良いのかもしれない。  そう思うと、ため息が止まらない。  夏鈴を思い出すほどに、恋慕のような感情がこみ上げてくる。  東京から逃げてきたはずなのに、もう俺は過去に追い詰められているじゃないか。自嘲気味の変な笑いが勝手に出た。  やっぱり、俺は狂っているな。  穢したくないのに穢してしまう。それはきっと、俺自身では止められない。  もうすぐ会える気がして、同時に恐れている。そして憧れてしまう。彼女と早く結ばれたくて、仕方がないんだ。      *  雪の少ない今年の北海道。寒さは相変わらずで、気を抜くとあっという間に芯まで冷える。いつの間にか誰もいなくなった寂れた町並みを眺めてから、とぼとぼと歩き出した。かつては俺が生まれ育った家が建っていた場所に。  黒焦げでマッチの残骸みたいになった柱を見たときの俺の気持ちが、野良焼きの臭いと共に蘇る。そこはなにもないと知っているのに、なにかが俺を待っている気がして急に怖くなり足が止まる。  丁度、携帯端末が鳴って画面に視線をやると、姉貴の名前が表示された。応答して、姉貴夫婦の家に向かうことにした。  車を取りに行って途中のスーパーで義兄が好物だという甘いお菓子を買って来いと言われた。酒好きなくせに甘党らしい。  菓子を籠に放り込みながら、姉貴夫婦にはなぜ子供がいないのかと疑問になった。結婚十年目で子供がいないとなれば、そんなこと聞かなくても想像がつく。実の姉弟でも気軽に聞ける話じゃないな。  会計を済ませて車に乗り込むと、すぐにエンジンをかけた。丁度車の前を横切る高校生の女の子が目につく。  夏鈴ではないのに、夏鈴ならいいのにと期待している自分がいた。新種の病気にやられてきたな。タバコが欲しくなるが、その欲望を打ち消すように舌打ちをして車を発進させた。  それから。およそ一か月間俺は何とかリハビリを続け、禁欲の苦痛も大分和らいだ頃。新しい職場に何度か通い、業務を引き継ぎながら何気なく見た生徒名簿の中に珍しい名前を発見した。夏鈴なんて名前はそこらへんにはない。  波戸崎夏鈴という生徒がいる。  新三年生に在籍している。退職する前任者が俺に言った。 「美術部の生徒は学年に一人ずつしかいなくてね。去年は新入部員がいなかったから、今は一人なの。この子の描く絵が大好きなのよ。あなたも気に入ってくれると良いけど」  柔和な初老の彼女は、聖母のように説明してくれた。 「寡黙で内向的な印象の生徒なんだけど、絵の中で見る彼女は自己主張が強いのよ。本当に面白い子…」  俺はその子を知っている、とは答えなかった。俺の知らない十年間の夏鈴がいる。  再会する手筈は知らない内に整っていたんだ。  かつての自分もそうだったけど、もしも絵を描く者が理解者となる指導者に出会えば、それだけ幸運なことはない。 「この高校から美大に進学した生徒は、過去に一人しかいないらしいの。あら…」  それが俺のことであることに気付いた聖母は、微笑んだ。 「じゃあ、あのデッサンや油絵はあなたが?!」  美術室の絵は歴代の先生達や生徒達の作品が並んでいて、その中でも俺の描いた絵が何枚か飾ってあった。  明日は汽車で登校しよう。  ここに通う生徒が利用する時間帯は、ひとつしかない。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!