再会と追憶

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再会と追憶

 今日も、泣きながら目が覚めた。  始業式の朝。玄関の引き戸を開けて一歩外に出てみれば、空は青く深く澄み渡り、小鳥の(さえず)りが優しく私を包み込む。くすんだ残雪のあぜみちを歩いていくと、犬の散歩帰りのお隣さんが笑顔を返してくれた。  四月と言えば春なのに、今朝は気温八度と冷え込んでいて、吐く息がどこまでも白く伸びようとする。マフラーを手放せず、ぐるぐると念入りに首を温めるのが道産子スタイル。駅までの道のりで、遠くに見える日高山脈の白い尾根を眺めていると、それだけでしばれていた心がほんのりと溶けていく。きっと、優しい朝の日差しが、黒いコートを温めてくれるおかげかな。  民家の少ない山間部の集落から海岸線に出て行くと、JR日高線の線路に辿り着く。この無人駅には、私の他にもう一人だけ隣町の学校に通う学生がいる。でも、お互い挨拶はしない。幼い頃から、私は地元の子供から背を向けられてきた。だから、こっちからも挨拶なんてしない。無視されるとわかっていて、挨拶なんてするものか。  六時二十七分発の汽車に乗り込んだ。  少ない乗客の中を進んでいつもの席に座ったら、車掌さんがすぐに切符の確認に来る。定期券を見せて挨拶を交わし、鞄から文庫を取り出すと他に目もくれず、私はフィクションの世界に没入する。  ガタンゴトンという揺れにもすっかり慣れて、手元の本の小さな文字を見失うこともなく、一人静かに本を読む時間は誰も入り込めない私だけの部屋になる。やがて隣駅に滑り込んだ汽車は、大きなブレーキ音を立てて停車した。  そのとき。誰かの長い影が、本のページの白を黒く塗りつぶした。  ドアが開いた途端、漁村の香りとその人が車内へ流れ込んできて、迷わず私の真正面に座った。  私は俯いたまま。スカートの下にある両膝と爪先をくっつけて、本に目を向け続ける。  汽車が走り出したと同時に車掌さんが来て、彼の切符を確認。その瞬間、聞こえてきた声が物語の世界から私を呼び戻した。どこか、懐かしい声。  嗚呼。でも、そんなわけがないよ! …と、自分にそう言い聞かせ、再び部屋に閉じ籠る。  静かなる男は、窓際に肘をつき頬杖をしながら風景を眺めている様子で、特に問題はないみたい。と、安心した矢先にそれは起きた。  足元に目をやると、尖った男性の靴先が私のつま先にジワジワと圧力をかけていて、今にも間に割り込もうとしているのだ。なんだか急に怖くなって、顔を上げることが出来ない。  二両目にいるのは、私とこの怪しい男だけ。どうしよう、朝っぱらから痴漢だなんて、最悪。身の危険を感じた私は素早く席を立ちかけた、その時だ。  ドックン! と、心臓が跳ね上がった。  視界の端っこにある顔。そして、その瞳に一瞬だけ目の前が暗くなった。でも、すぐに気を取り直して彼を見ると、目と目がバッチリと合う。  真っすぐな視線に吸い込まれて、絡め取られる。 「やっと、こっち見たな」  やはり、勘違いなんかじゃないその声。それに、細くて長い指が、いつの間にか私の左手首を握っていて。 「ここにいろよ」  声が、出ない。驚き過ぎて、頭が真っ白になる。 「久しぶりだな」  彼は、  東海林(しょうじ)晴馬(はるま)は、にっこりと笑った。      *  時が止まる。遠い過去に、意識が飛ばされていく。  ――それは十年前。年の瀬が迫る、クリスマスの夜のこと。  母子家庭の私は、いつものように夕飯を買いにお金を握り絞めて、家を出た。朝から降りしきる雪が積もって、屋根も車もクリスマスケーキのようだった。  強い寒気で降る雪は粉のように小粒で、その上を歩けばきゅっきゅっと小気味いい音がする。味気なかった町並みが急にお洒落したように綺麗になって、自然とテンションが上がった。でも、冷たい空気を吸い込んだ肺が寒さにおののいて、気付けば近道に足を踏み入れていた。  その広い空き地の真ん中には天然のスケートリンクが出来ていて、真っ平の雪の絨毯が。独り占めしたくなって、私は駆け込んで行った。  八歳の私は無知だった。  氷のステージの真ん中で、両手を広げてクルクル回りながら無邪気に笑った。  舞い落ちる雪が綺麗で、夜が眩く煌めいて、寂しさも寒さも一気に忘れていた。今朝、サンタさんがくれたばかりの新しい雪靴のせいもあったと思う。  普段は滅多にはしゃいだりしないのに、浮かれていた私は氷の上で、跳ねた。次の瞬間、ぴきぴきと乾いた音がしたかと思うと、私を中心に放射線状の蜘蛛の巣を描いて、割れた。  ドボン。  足元の氷が砕け散って、一瞬で膝の上まで冷水に浸かってしまった。  私は思わず悲鳴を上げていた。すぐに抜け出そうとしたけれど、脆くなった氷は簡単に這い上がらせてくれない。  一秒毎に容赦なく体温が奪われていく。  夜は濃く、雪は激しさを増し、通りすがる人影もない。  靴が水溜まりの底にくっついて、外れない。  靴を脱いで水からやっと抜け出してはみたけれど、新しい靴が諦められず、右手を氷水の中に差し込んだら、胸まで濡れた。指先が靴を捕まえ、一心不乱に引っ張ってはみたものの、びくともしない。  ジンジンと痛む皮膚から、次第に感覚が遠のいていく。  濡れた服に吹き付ける風も、しんしんと降り続く雪も、意地悪く私を嘲笑っていた。  気付けば夕飯を買うお金も失くしていて、絶句。  自棄(やけ)になって、再び水の中に両手を入れて靴を引っ張ると、今度はあっけなく抜けて、勢い余って遠くに飛ばしてしまった。どこかにそれが落ちる音だけは聞こえても、私はもうそこから一歩も動けやしない。  雪の上に寝転ぶと、深淵なる闇の底から(おびただ)しいほどの雪の花が舞い降りてくる。息を飲む美しさに、死がすぐそこまで近付いていることを悟った。すると突然、胸の奥で何かが爆発した。  (みなぎ)ってくる力の限り泣いた。  突き上げる衝動のまま、喉を振り絞って泣き叫んだ。  わかってる。お母さんは来ない。  今頃、病院で病気の人達のお世話をして忙しいんだもの。  私を養うために、たった一人で頑張っているお母さんを困らせたくなくて、随分と前から泣いたりしなかった。でも今は、そんなことはどうでも良い。  最期に、人知れず雪に埋もれて死んでいく私を、この白い夜に焼きつけたかったのかもしれない。  寂しさが溢れて、絶対的な孤独にうちひしがれた。  でも。突然、誰かが私を抱き上げた。 『俺が来たから、もう大丈夫!』  ―――それが、晴馬との出会い。  黒いコートを着た王子様は、凍えた私をお姫様のように抱き上げると、自宅に連れて行って濡れた服を一気に脱がせた。そして素早く男物のシャツを何枚も私に着せ、(ぬる)いお湯で手先と足先を、湯たんぽにタオルを巻いてお腹を、時間をかけて温めてくれた。  いつの間にか失くした新品の靴も見つけて来て、ストーブの前で乾かし始めた。 『危うく死んじゃうところだった…』  ふわりと言った彼の声と顔が、ゆっくりと近付いてくる。  私の額に彼の額が重なった時、目の前が白い閃光に覆われてぎゅっと目を閉じた。 『本当に、間に合って良かった』  微かな声を聞きながら、彼の大きな手がまだ冷たい体を探って、冷気を奪いながら同時に熱を与えてくれる。  しばらくすると、熱々のインスタント麺を私に食べさせながら、聞いた。 『そろそろ子猫ちゃんの名前、教えてくれる?』  知らない男の人に名前を教えてはいけないって、お母さんと約束していたのに。命を助けられ、着替えのときに一瞬だけど裸も見られて、今更名前を隠す理由など思いつかない。  それに、私の事を見つけてくれた。一人寂しく死にかけていた私を、掬い上げてくれた。  そしてこんなにも、優しい。  幼かった私は、おそるおそる自分の名を告げていた。すると彼は、確かめるように口の中で呟き、それから私の目を見つめて、初めて名前を呼んだんだ。 『「夏鈴(かりん)」』  あの時と同じ声色で、私の名前を呼ばれ、胸の奥がカッと熱くなった。
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