逃げてきた男

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逃げてきた男

     *  朝が来る。たかがそれだけのことなのに、俺は何かに怯えている。  白い天井は手が届くほど低く、必要最低限の家具家電付きのマンスリーマンションの一室で、ろくに眠ることも出来ずにいる。  不定期にやってくる電話に一喜一憂するたびに、不眠症という名の不可解な症状が生活に暗い影を落とすようになってから、もう一年以上にもなるのに。手を打つこともせずただ流されて翻弄(ほんろう)される道を、俺は自ら選んでいただけなのかもしれない。  せめて、一度ぐらい立ち止まって冷静に振り返っていれば、ここまで悪化することもなかったんじゃないか。そう思う反面。いや、違うな。そうとわかっていながら、俺は(むさぼ)るように彼女の体温を欲し続けた。  彼女にはすでに、パートナーがいた。そして、狡くて不真面目な俺にも当時、恋人と呼べる女がいたにはいた。だが、そもそもその女には本命の男がいるという、それこそ意味不明の関係だったせいもあって、新しい女に乗り換えることに罪悪感なんてこれっぽっちも感じていなかった。  不本意ながら、俺は彼女の笑顔と甘い誘惑に身も心も溺れることになっちまった。  それまでの俺は恋愛にかなり奥手で、俺の顔が良くて背が高いという外見のみに惑わされた女と軽々しい関係を繰り返していた。来るもの拒まず去る者追わず、というやつだ。  でも、誤解しないでくれ。俺は「人肌が恋しくなる」という謎の奇病にかかっていたのだ。普段は誰にも触れられたくないくせに、突然触れ合いたくなる。孤独を愛しているくせに、突然一人が寂しいと感じる。そうした矛盾は多かれ少なかれ誰にでもあるものだろう。  それが俺の場合、異常にひねくれていた。  自分でそうとわかっているのに、どうすることもできなくなっていったんだ。  基本、俺は誰の事も信じられない。心を許せないという感覚は、裏切られるリスクを回避してくれる。過剰な期待は「裏切り」という釘バッドで殴られるような激しい痛みを連れてくる。そんな悲劇のない人生は、どこまでも安らかで静かだ。  だが、その一方で、どうしようもなく乾いていた。カラッカラに干からびて、行き倒れて死にそうなぐらい、人肌に、愛に、飢えていた。  なんでこんな面倒くさいメンタルになっちまったのか。自から理由を探し出すことから逃げていた節がある。つまり俺は、心の腫物に触りたくないと思っていた。あまりにも衝撃的過ぎて未だに消化できない強烈な体験が、一度俺の心を木っ端みじんに破壊したからだ。そんな、どうすることもできないものを抱えることは誰にでも起こりうるし、大小問わずなにかしらあるものだと思う。  なのに。そんなこじらせている俺が、彼女にだけは特別にのめり込むことになっちまった。  彼女があんまり寂しそうで、その息遣いさえもどこか俺自信と重なって見えたせいもある。喫煙室で魅せた横顔に、哀愁らしき昏い影があって、それが見惚れるほど綺麗だったんだ。  会うたびに、肌を重ねるたびに、中毒になる。離れがたくて恋しくて、他の事も冷静に考える余裕もなくなって、こんなにも誰かを欲したことはなくて。  これを恋と言うには、違和感がある。だけど、他にまともな恋をしたことがない俺に正解はわかるわけもなく。  一緒にいても、離れていても、考えることは彼女との情事ばかり。互いの渇きを癒し、身も心も満たし合える理想的な関係に、すっかり魅了されていた。  俺たちの関係は女王様と奴隷のようなものだった。互いに縛り合う恋人関係には興味が無かったから。六歳上だし、婚約者がいる女だ。彼女は左手薬指に嵌めたダイヤモンドの婚約指輪によくキスをしていた。  立ち入ったことを聞く度胸もない俺は、興味がない振りをして厄介事を切り捨てた。抱き合うときは無我夢中になれさえすれば、それ以上もそれ以下も必要ない。男と女が求め合うことに理由なんか要らない。だけど、情事の後にやってくる虚しさは相変わらずだった。  彼女と初めて結ばれた夜だけが、本当の意味で特別だと言える。その至福の境地を再び味わいたいがために、必死になっていたところがある。縛られたくないと言いながら、俺はあの夜の感動に縛られていた。あまりにも幻想的で慈愛に満ちた夜だったから。  それにしても、彼女の本心を俺は知らない。  彼女が誰を愛していたのかも、本当は何を求めていたのかも。  彼女は俺以上に、虚しそうだった。俺よりもずっと深い闇を抱えていた。そして、たぶん俺以上に飢えていた。それだけはわかった。  色々あって、もう二度と会わないって話になってからも、俺はどこかで彼女からの電話を待っている。大嫌いだと突き放したのは俺なのに、気付けば彼女からの電話を待っている。  今頃、誰と一緒にいるんだろう?  俺ではない誰かと笑っているんだろうか?  それとも、一人でまた途方に暮れてるんじゃないか?  出会った頃の彼女は、全てがうまくいかなくなって、いつも不機嫌な顔をしていた。そんな彼女が俺の名前を呼ぶ度に、鼓動が速くなっていくのを意識し始めた途端。彼女の方から誘ってきてくれた。  得意先との打ち合わせ帰りの食事会で、一緒に居た同僚が帰った直後。彼女の目つきが変わった。緊張してトイレに一旦逃げ込んで、気合を入れてから戻ってみると、カウンターに一人で座って待っていた彼女の左手の薬指に光る小さなダイヤモンドが消えていた。 「やっと二人きりになれたわね」  今思えば。あれは天使の微笑みなんかじゃなく、悪魔の誘惑だったんだ。  一度覚えてしまったタバコをやめるのは、想像している以上に難しい。唇に挟んだまま深く吸い込む刺激を肺に満たせば、薄く焼けるような痛みと共に、特有の味が粘膜にしみ込んで妙な安堵感を得られる。  こんなものは他にない。代りが効かない。だから、やめられない。  風邪を引いて、味覚が麻痺した時にでさえ感じるヒリヒリという刺激と味。彼女との逢瀬はそれに近いものがある。これまで付き合った女にはない色気もそうだけど、何よりも他の男と婚約中である彼女が、自分の手の内に溺れて悶える姿は、感じたことがないほどに興奮した。  背徳感がなぜ癖になるような刺激になるのか、俺は深く考えようともせず、彼女が求めるものを全て自分が与えられたら満足だった。頭の中を空っぽにしなければ、触れ合うことさえもままならない。  普段の俺達の関係は、仕事の上司と部下に縛られている。  空間デザインの設計士という仕事は、常に想像力を働かせ尚且つイメージを構成する素材を実体化させなければ、顧客の期待に応えられないし、何よりも発注者が納得するためにいくらでも書き直す忍耐力と対応力が要求される。何度も何度も練り直し書き、要望を確認しては書き直して、理想に近づけていきつつもデザインにおいては提案しなければ本領発揮には至れない。気力も体力もコミュニケーション能力もなければ立ち行かないのが、デザインという職業だと思う。  そんな緊張感のある職場で何年も働く彼女は、最初の一年間俺の指導担当をしてくれた恩人でもある。  器用で人当りに悩む要素もなかった俺が最初に躓いたのは、顧客との交渉と対応の柔軟性だった。クリエイトすれば、そこに自分らしさを刻印したくなる。でも、空間デザインの現場で未熟者の自分らしさは好まれるわけがない。その現実を受け入れることが困難であるなどと、最初自分で気付くこともできないで、俺は妥協する道をただ拒絶していた。自分のコンセプトと顧客のコンセプトがかみ合わず、何度カタチにしても納得させる技量がないことで、無駄に落ち込む一方な俺を励まし続けてくれた人…。  今だからわかるけど、俺は最初から彼女に惹かれ、彼女を抱きたいと思っていた。それがある日、偶然見てしまった彼女の恥ずかしい秘密をきっかけに爆発して、気付けば彼女と深い仲に転がり込んでいた。  彼女には一言もそんな話を聞き出すこともせず、二人きりで合えば食事も忘れて求めて貰えるままに求めた。  彼女が他の男と婚約して、そのうち結婚式をあげるという話を職場の誰かからぼんやり聞いた後も、俺たちの不埒な関係は続いた。ただ、初めから最後まで変わらなかったことがあるとすれば、彼女の都合に合わせるカタチでだけ俺は呼び出され、どんな場所であっても彼女が欲していれば、その飢えを満たしてあげることが俺に与えられた使命だった。  今となっては、自分が彼女をどこまで愛していたのかさえもわからない。彼女の何にそんなに惹かれていたのかも…。  情事の最中は、自分じゃなくなる場面がたびたびあった。  マリオネットという人形劇の登場人物のように、与えられた役を演じているような奇妙さが癖になっていた。俺は俺自身が大嫌いで、他の誰かを演じることが斬新で新鮮でひたすら楽しかった。欲求不満な彼女もまた、知的で大和撫子みたいな落ち着き払っているくせに、刺激的な下着をわざわざ俺に見せつけて、俺の前だけでは自分の欲望に正直であけっぴろげで危うくて。  彼女が創り出す強烈な雰囲気に飲まれて、俺は彼女が求めるがままにエスコートする。毎回、新しい趣向が加わり俺を飽きさせまいと必死な気もしたが、そういうところが楽しくて、とにかく、そのギャップに脳がやられっぱなしだった。  でも。海外出張から戻った社長に、彼女はキャラクターを変えてイチャつきだしたんだ。  事情を知らない俺は、見ていて酷くイラついたが、悟った。そして、その直後に初めて彼女の婚約者が社長だと知った。  彼女への尊敬の念も恋心も上司としての信頼も、全てが壊れた。  俺はただ、悪い夢を見ていた。  そう思いたいのに、彼女は俺に吐いた嘘を正当化するばっかりで、自分は被害者だと開き直った。仕事を獲るために、女の武器を使わせていたという社長。そんな酷い話は、正直聞きたくなかった。  俺はただ、彼女の睡眠導入剤として、何も知らされずに彼女を抱いていたに過ぎない。  後日、なぜか社長から呼び出しの電話が鳴ると、俺はいつの間にか連中に囲われて、彼女の愛人として飼われる話になっていた。彼女が安らかに眠るために通ってくる夜は、特に会話もなく彼女が満足するまで何度も何度も奉仕する役目を与えられたのだ。  身を削って睡眠削って、周りに嘘までついて友達も作らないで。社長を軽蔑しながらも言い成りになって、仕事よりも彼女中心の人生に染まっていった。  あの時、やめることだって出来たはずなのに―――。
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