10年越しの初恋

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10年越しの初恋

「波戸崎さん」  玄関を出たところで男の子から呼び止められた。振り向くと同じクラスの男子だと気付く。ただ、名前が思い出せない。緊張しているのか顔が引き吊っていた。心なしか声も震えている気がする。 「ちょっと、話したいんだけど時間あるかな?」 「…少しだけなら」 「じゃ、こっちに来て」  彼は手招きをした。  あ、どうしよう。行きたくない。  まるで足が地面に縫い付けられたように、動かない。行ってはいけないのだと、見えない誰かが私を引き留めている。  ―――固まっているだけじゃダメ。  自分をそう叱咤して、私はゴクリと唾をのんだ。そして、スカートをギュッと掴んで、顔を上げた。 「ごめんね! 恋人を待たせてるから!」  私はそう叫んで、踵を返した。  「あ!」という彼の声が背後から聞こえたけど、振り向かずにそのまま走って校門の外に飛び出した。  そこから最寄りのバス停じゃなく、次の停留所に向けて走っていく。さっきまで美術準備室の奥で晴馬に抱きしめられていた私の身体の奥は熱っぽくて、暑かった。  晴馬に指示された通りにバス停ふたつぶん先で、彼を待った。買った車の引き取りがあって、一番に乗せたいって言ってくれたから。  急激な関係の変化に何とかついて行こうとしている自分の必死さがどこか滑稽で、情けない気持ちも混ざってくる。それを誤魔化すために、私は時折目を閉じて呼吸を整える。  時間をずらして学校を出てきた晴馬は先にタクシーを捕まえて、私を拾うと真っすぐディーラーに向かった。タクシーの運転手さんがバックミラー越しに私達を見ているというのに、晴馬は私の手を握りしめて微笑みかける。マフラーに顔を埋めて、私は目を閉じた。      * 「待たせたな。行こうか」  引き取りの手続きを済ませた晴馬に手を握られただけで、心臓はこんなにもドキドキする。なのに、なぜか心は晴れない。  晴馬は私を助手席に乗せると、シートベルトを締めてくれた。  顔が急接近して、緊張で肩が竦む。そんな私を見つめて、嬉しそうに笑う晴馬の顔を見ているだけで、心臓が爆発しそうになる。  新車の匂いを感じながら運転席に乗り込んだ晴馬を見つめていると、彼は無駄のない動きでベルトを締めシフトレバーを操作して車を発進させた。お店の人に見送られて国道に滑るように出ると、お爺ちゃんの軽トラとは違う目線の風景が流れ始めた。  スポーツカーは、地面に近い。同じ速度でも、より速く感じる。今日一日が象徴されている気がしてきた。  運転中、晴馬は私の方ばかり見てくる。「お願いだから、ちゃんと前を見て」と言っても、ニヤニヤして上の空。 「だって、嬉し過ぎるから」  ―――そんなことを、晴馬が言うなんて! ずるい!  火照る頬を両手で隠して、マフラーに顔半分を埋めた。  激しい鼓動はエンジン音がかき消す。それにしても晴馬が運転する姿は想像していた以上に素敵で、大好きな横顔が涙で滲んだ。  高速道路の無料区間に入ると同時に加速して窓を開ける。髪を風になびかせた晴馬の横顔が眩しくて、見惚れてしまう。 「お前との約束、これでひとつ叶ったよな?」  真冬生まれの彼は、年末の誕生日に免許を取っていた。私を乗せて走りたいと言ってはいたけれど、北海道の雪道は初心者じゃなくても厳しい。春になったらと約束したのに、彼は卒業式が終わってすぐ東京に旅立ったから、約束は棚上げになっていた。  あの年の雪は少なくて、春休みには道路から雪はすっかり消えていた。そして、突然の別れ。  忘れてはいなかったんだなぁと、呆れたような、寂しいような、やるせない気持ちになる。  そんなこととは露知らず、私の右手に晴馬の左手が重ねられてぎゅっと握り絞められた。その手は温かいのに、まだまだ私の心は寒さに震えている。 「…会いたかったよ、ずっと」  嘘だ。だって、本当に会いたかったら、会いに来てくれた筈でしょう?   そう思っても、言葉にするのが怖くて、焼け付くような胸の痛みに堪えながら前だけを見つめたら、晴馬はそれからずっとおとなしかった。      * 「二人で来るなんてビックリしたわ」  町立病院で看護師長をしているお母さんが仕事の合間に時間を作ってくれて、救急入り口の傍で立ち話している。晴馬は緊張のためか、どこかぎこちない。 「そうだよね、私もまだ驚きから立ち直ってないし…」 「お母さん。俺と夏鈴は今朝、運命的な再会を果たしまして」  晴馬はあの頃とそう変わりない屈託ない物言いで、お母さんに説明し始めた。私達が付き合うことになったことを伝えるのだとばかり思って、隣で照れながら見守っていると。 「俺達、夏鈴が卒業したら多分すぐにでも結婚します!」  唖然。  け、け、け―――結婚ですか? 「結婚?!」  ナース服を着たお母さんが、目を丸くして驚いた。でも、すぐに嬉し泣きしながら私に抱き着いて「おめでとう!」と叫んだ。  何人かの看護師さんに囲まれて、晴馬と私は祝福された。―――って言うかいきなり結婚話が飛び出して、私はまた思考停止中。晴馬は少年のような無垢な笑顔で、頭を掻いている。  これまで何度かお母さんと、結婚の話をした。  私の両親は未婚。お父さんは私が生まれる一か月前に病死している。他にも事情があったとしか言わないけれど、お母さんは籍が入ってる入ってないの問題じゃない、と強く言い張った。 『人生で、これ以上ないほど強く惹かれ合う人に出会ったら、ちゃんとわかるものなのよ』  私にとってその相手が晴馬なんだと、後押しまでしてくれた。本当に愛していたら何年かかっても、何度でも惹かれ合うから大丈夫よ、と。  でもね、お母さん。私、今すごく怖いの。  突然過ぎて、うまく行き過ぎて、幸せ過ぎて、全部夢じゃないかって疑ってしまうの。  直ぐには喜べないの。それが、寂しいの…。  晴馬は私の肩に手を置いて、「俺、もう絶対にお前を離さないって言っただろ?」と囁いてくる。  言い表すのがとても面倒だと思ってしまうぐらい、喜びよりも先にザラリとした不安が押し寄せてくる。それは十年前。突然居なくなった時に感じたものと同じ気持ちだと、すぐにわかった。  突き上げられて突き落とされる怖さを、嫌というほど味わってきた。だから、どうしても…。  そんな私の気持ちなんて知らない晴馬は、車に戻った途端。助手席を倒して私に覆いかぶさってきた。  セーラー服のサイドジッパーを引き上げられて、晴馬の手が私の素肌を撫でた。流されてはいけない、と自分を奮い立たせ、咄嗟に押し返す。 「ごめん。夏鈴。俺、いい年のくせに自分勝手なことしてるよな? 俺の事、怖くない?」 「…っ……怖い、よ……」 「俺も…、怖いかもしれない」  晴馬も、声を絞り出すように囁いた。 「小さなお前がこんなにきれいになってたから…、驚いた」 「…え?」 「こんな気持ちになるなんて、自分でも意外だったから…」  そう言いながら、晴馬はゆっくりと顔を近づけてきた。私の頬にその吐息が触れて、目だけを彼に向けると今にも泣き出しそうな顔で、私の頬にキスを落とした。 「…最初、駅に入ってきた汽車の中にお前を見つけた瞬間。驚いた。八歳(やっつ)が最後の記憶だったお前が成長してる姿を見て、胸が躍った。真っ先にお前の前に座ったってのに、全然俺を見てもくれないから、…怖くなったよ?」  静かにヒソヒソとした喋り方の唇を、私の耳元に押し付けてくる。ゾクゾクとして、全身が何度も震えた。 「…読書中の顔をチラチラと見てたらさ。勉強に集中してたあの頃のお前の顔、思い出して。真剣な目で、真剣に考えてるお前。すごく可愛くて好きだったな…って。そしたら、色んなことがどんどん思い出されてきて…。  お前に無視されている間、俺がどれだけお前のことを思い出したか。そのどれも、俺だけに向かって笑ったり怒ったりしてるんだから、これはもう堪らないなって思って。綺麗な顔をしたお前が文庫を読みながら時々、微妙に感情が顔に出てたよ?  そのひとつひとつを眺めてたら、お前の笑顔が視たいって思った。俺だけに向かってくる笑顔を見せてくれって、そう思ったら…」  晴馬は布団の中で特によくしゃべる人だった。それは今も変わっていないんだ、って思う。  途切れた言葉を待ちながら、私はゆっくりと顔を彼の方に向けた。  笑顔が視たいっていうなら。今、笑えるかな?  上手く笑えるかわからないけど。精いっぱいの笑顔を彼に見せたい、と思って。 「!」  私を見下ろした彼が、驚いたように目を見開いた。そして目を細めたかと思うと、勢い良く私の唇を奪った。  唇を食べられるような、そんなキスだ。  さっきよりもずっと激しくて、私の下唇を彼の歯が優しく噛む。その痛みに驚いて思わず口を開けた途端に、晴馬の意志を持った芯が滑り込んできた。  深いキスとは聞いていたけど、これは本当に…そう。深いんだ、と感じた。全てにおいて、まだ未経験な私には、この激しいキスはちょっと嫌だった。  キスの合間に「…いや」って訴えても、情熱的な彼の勢いは止まらることを知らず、徐々に熱っぽさも激しさも増していく。  彼の舌に私の歯列がなぞられるなんて…。  ドンっと、その胸をありったけの力で突っぱねた。変なスイッチが入った晴馬が怖くて、顔が見れない。色んなことを置き去りにしたまま、どんどん進もうとする晴馬のことがやっぱり、どうしたって許せない。  ドキドキ高鳴りっぱなしの心臓も、熱くなる肌も、恥ずかしいのに、嬉しくないわけがないのに、でも怖い。  突然消えた前科持ちの晴馬を、どう信じれば良いのかわからない。  切なくて、苦しくて、惨めで。  好きなのに、あんなに恋しくて、すごく会いたかった筈なのに、全然喜べない。  むしろ、悲しい。  どうして、こんなに悲しいんだろう?  全身が震えて、涙が溢れ出す。  「今は、ただ抱きしめて!」と、叫んだ。  晴馬は強く激しく私を抱きしめて、苦しそうにため息を繰り返していた。  口で語るほど愛は簡単じゃない。  だって、まだ信じられない。  再会したのは、ほんの十時間前のことなんだもの。  それから、かなり長い時間私を抱きしめてくれた晴馬は、落ち着いた私に軽くキスをすると無言で送ってくれた。
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