うなぎ

1/1
前へ
/1ページ
次へ

うなぎ

 目の前には少し薄汚れた長方形の漆の器。中には湯気をまとった白米と、見た目で香ばしさが伝わる焼き色に染まったウナギのかば焼きが盛られていた。その上には色の濃いタレがとろりとかかっている。  紙の袋から箸を抜く。まさに抜刀。私はこの時より、食に生きる侍になったのだ。  箸をかば焼きに差しこむ。抵抗など全く感じず箸は身へと沈み、箸の先を少し横へ動かし、小さく分けられたウナギの身を口へ運ぶ。タレをこぼさぬように。口へ入れる瞬間、山椒の香りが鼻をくすぐる。噛む。なんということだ。まるでマシュマロである。そして、2回目を噛むことなく、身はとろけて消えた。そんな馬鹿なとお思いになるだろうが、本当のことなのだ。今の一切れが胃の中に納まった実感などまるでないので、少し落ち着きを取り戻すために、タレがしみ込んだ白米を口に含んだ。  これがまた筆舌に尽くしがたい。しかしあえてこの世の言葉で語りつくさねばならぬとしたら、それは口の中の代かき、とでも言うべきであろうか。田んぼでは稲を植える準備として、田に水を入れる作業があるのだ。それが代かきである。ご飯に乗って口の中へ入れられたタレは、そのまま口の内壁を広がり、満たし、濃厚な醤油の甘みが私の身に染み渡る。  落ち着きを取り戻し、私は先ほどよりも大きい二切れ目のウナギを口に入れる。またもや溶ける感触が蘇るが、今度は逃がさず、歯を上下から押し当てるように噛みしめる。  身を十分に味わったあとは、まだ口にしていなかった皮を身から丁寧に引きはがし、舌に乗せる。舐め返されるようなぬめりという感触が先に脳へと伝わり、そんな独特の感触を追うようにタレの甘みがいっぱいに広がる。まさに味わえる絨毯が口の中に広げられたと言っても決して大げさな表現ではない。丁寧に編み込まれたような生地のような触感を味わい、一呼吸置くために備え置いておいた緑茶をすする。そうすると、どうしてウナギはこんなにも人を幸福な気持ちにさせるのだろうか、という疑問にぶつかる。  聞くところによると、ウナギは養殖が難しく、近年になってやっとシラスウナギの完全養殖が成功したそうだ。今食べているウナギがシラスウナギか二ホンウナギかはわからないが、遥か奈良時代、いや多分もっと昔から人間に食されながらも、近年の科学でやっと扱えるような生態を持つウナギ。彼らが持つ神秘と人知の領域が、今私の目の前に打ち開かれているのだ。もしかしたら、ウナギが美味しく感じるのは、決して食感や調理といった三次元で手を加えられたことだけが要因ではない、のかもしれない。  その真実に少しでも近づかねば、手を伸ばさなければ。そのような思いが箸の動きを、咀嚼する口の稼働を加速させる。  あっという間に盛られたうな重が器だけを残して空になる。量が少なかったのか、残りなど気にしなくなるほど食に没頭していたのか。  箸をそっと置く。普段なら食べ終わるとスマートフォンをすぐいじる私だが、今この時ばかりはこれだけは言わねばならないだろうと脳が叫んでいた。  ご馳走様。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加