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霧
俺は小さな頃、天気を予知できる子供だった。初めてその能力を発揮したのは、保育園の入園式。
晴天のなか、傘を持っていくといって聞かず、母親は仕方なく俺に傘を持たせたまま出かけた。
その日、天気予報では降水確率0パーセントだったのに、帰る頃にはしのつく雨となり、母親の晴れ着(といってもスーパーの2階で買ったスーツと量販店のパンプスだったが)を容赦なく濡らした。
その後も、たびたび俺はひとりだけ、正しく天気を読んで生きてきた。
家族以外には内緒にしたままだったから、学校では話題にもならず、「用意のいいヤツ」とだけ思われていたはずだ。
大きくなると、その能力はすっかり消えてしまった。
メンタルケア専門病院の診察室でその話をすると医者は俺にゆったりと微笑み、「そういうこともあるのかなあ」と極めて曖昧に応じた。
医者の背後にはくもりガラスの大きな窓、その向こうにざわざわと春風に揺れる黄緑の若葉。
穏やかな昼下がり。病院内には空気清浄機がついているのに、なんとなく不透明な空気がとろりと溜まっていた。
昨年、公務員試験に落ちて以降、俺は引きこもり生活を送っている。
いや、こうして病院も通っているし、たまにアルバイトや買い物もするから、真性のひきこもりではないと思う。
職業欄に「患者」や「病人」という欄があればいいのに。迷わず○《まる》を付けるのに、といじけたことを考える。
引きこもり生活も早1年。
心は常にくたばりかけている。
体もそろそろかなーなんてぼんやり思うけど、具体化はできてない。
ぼんやりしていると、表情のない受付嬢が、「5014番の方」と俺を呼んだ。
「楠谷翔吾さまですね」
カウンターで結局あたりをはばからず名前を確認する。
受付と診察への案内ではずっと番号で呼んでいたのに、あれは何だったのか。ため息が出る。
学生時代から使っているぼろい財布から小銭をかき集めて金を払う。
母親に金を無心しなければ、通院もままならない。なんだかもうどうでもいいような無気力さが増す。でも金は必要だ。
病院を出て、バス停にならび、スマホの画面を開いた。頭を使わずに済むバイトをアプリで検索してみる。画面を眺めるだけで頭痛がした。
【マニュアル有りで簡単☆商品の梱包作業☆ 時短OK!!】
これなら、とタップして応募が完了する。
テンプレートの返信が、秒で返ってきた。
着信を知らせるマークの点滅のせいで、物凄く気が滅入る。操作をしたのは自分だが、メールが届くことを拒否できないのが息苦しい。
ため息をついて、重いからだを自分の筋肉で支えるのさえしんどい、と感じながら、バスに乗り込む。
家の近所まで1本で行ける路線だが、便利であると同時に近所の人間もよく乗っている。知り合いに会っても気づかれたくないのでマスクをしようとポケットを探ったが、どこかで失くしてしまったようだった。
仕方なく、なるべく奥の席に座ろう通路を進む。と、
「楠谷」
俺を呼ぶ声がした。
鬼ごっこで捕われたときのようにぞっとしながら座席を見ると、小柄な若い男が僕を見上げていた。
色白で、ほくろの沢山ある繊細な顔立に見覚えがあった。
北村菫。
同じ高校の同級生だ。小顔で細くしなやかな身体つきと優美な名前、それからテニス部での華やかな成績で女子からの人気が絶えなかった男だ。
「お、おお」
発車するバスの揺れが、俺の掴んだ吊皮を揺さぶり、彼の顔の後ろにある窓ガラスに思わず空いてる方の手をついた。どん、と思いのほか乱暴な音がしたので、
「わりぃ」
と謝る。卒業後は連絡を取っていなかったが、俺の転落人生のことは、きっと噂にきいているだろう。気まずくて、
「俺、後ろ座るわ。じゃ」
そう言ってそばを離れた。一番後ろの座席に座り、寝たふりをする。
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