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今の俺は生き恥そのものだ。
無職でこんな昼間から病院通い。手持ちの金はバス代ギリギリときている。
就職して働いている他の奴らからみたら、きっとクズ。
ん?
待てよ?
薄目を開け、前方に座る北村の後頭部を見る。
穏やかな日差しが、サラサラした彼の髪の上で輝いている。
服装はカジュアルなシャツにニットベスト。
会社員の格好ではない。
こんな昼間に、住宅地へ向かうバスへ乗っている北村も、もしかしたら働いてないんだろうか。
俺が降りるバス停のひとつ手前で、彼はバスを降りた。
ちらりと横目でこちらを確認したように見えたが、それだけだった。
心が平穏なら、彼の姿を車窓から目で追ったのかもしれない。
けれど、眼球を動かすだけでも今は酷く疲れる。まぶたに、バスの座席にすっと座った彼の背の映像だけが、丸く浮かび上がった。
通院に気付かれていないならどうでもいい。誰かが次の停車ボタンを押してくれたことにホッとしながら、俺はまた目を閉じた。
その日のうちに応募した梱包バイトから面接の候補日が送られてきた。
場所は住宅地の中にある古めかしいタイル張りのビルの一室だ。
指定された日に赴くと、オフィスの入り口、パーテーションで仕切られた一画に通された。
ジャケットの襟をフケで汚したおっさんが現れ、
「バイトはこれまでにも色々してるんですねー」
と語尾を伸ばす。
「はい、まあ」
と俺は肩と頭を軽く下げ、頷く。人と向かい合っていると息苦しい。
おっさんは、健康状態についていくつか質問をしたあと、
「重労働ではないけど、納期はあるから病欠のない人にしたいんですよねー」
と履歴書に目を落としながら独り言のように呟いた。
正直に通院のことを話すか、それとも黙っているか。
俺は後者をとった。
「はい」
「じゃあ、5月から来てくれますか。ゴールデンウィークも、大丈夫ですかー?」
少しおどけた調子でおっさんは前向きにことを進める。
「はい」
「じゃあ、週3で適当にシフト組んじゃっていいですかー」
通院とかぶらないことを祈りながら、同意した。まあ、3回働けば、あとはどうでもいい。
「あ、これお土産です。彼女にでもあげてねー」
帰り際、おっさんは何か薄いものを手渡した。
キャラクターのポストカード。白いゴムまりのような生き物が、ハートを抱えて何かつぶやいているが、その文字が韓国語になっていて読めない。
「どうも」
すでに面接で使い果たそうとした気力の残高を守るために、俺はそのポストカードを受け取った。初めから最後まで、学歴についての話題が出なかったのは初めてだ。俺はおっさんに少しだけ好感を持った。
その夜、疲れてベッドで横たわっていると、久しぶりに天気の変化を肌で感じた。まず、膝の裏がむずがゆくなり、そのあと全身が強風にあおられているように細かく震えだす。そのうち耳の中に広がる音。
キィン、と澄んでいれば晴れ。
ざーっ、というノイズなら雨だ。
しかし、今日は、ぱ、ぱ、ぱ、と何かがはためくような音がした。
どうなるんだろう、今夜の天気。
大災害とかじゃないだろうな。
まあ、今日が最後の日になっても、自分はどうでもいい。
とはいえ、旗音はいよいよ強くなっていく。締め切っている遮光カーテンをそっとつまんだ。日中、または夕方の早い時間に在宅していることを近隣に知られるのが嫌で吊り下げているものだが、一瞬なら、外から見えても影響はないだろう。それにもう深夜だから、「楠谷さんちの息子さん」つまり俺が在宅していても不思議はない。
言い訳のようなことを考えながら、分厚い布地をかき分け、窓の外を眺めた。小雨が降っているのか、わずかに水滴がついていて、よくみえない。
窓を開けても、本来見えるはずの細い路地は見えなかった。街灯のレモン色の光が輪になり滲んでいる。霧だ。霧が深く出ていた。
霧を予知したことはなかった。
思わず手を伸ばし、水滴と湿気のあわいのような冷たい空気に触れた。すっぽりと雲の中にいるようだ。
ほとんど散ってしまった桜の木から甘く葉の匂いが漂う。
何もみえないけれどいい夜だな、としばらく窓辺に手をかけ、表を眺めた。
久しぶりに心が静まっていく。
時が止まったようで、ほっとした。
すると微風が吹くなかを、ジョギングする人の足音が近づくのが聞こえた。きっと老人とか中年の健康マニアだろう。寝付かれなくて走っているのだろう、と思っていると、黒のフードを着た男が、窓の下を通っていった。
背格好は随分若い。
こんな時間に走って、日中活動できんのか?
疑問符を浮かべつつ、窓を閉めようとした。
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