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すると、ごく近くで、キィィィ!と耳をつんざくような鋭いブレーキ音と、ぼん、と何かが弾きとばされるような音。
思わず窓をもう一度開けた。すべては深い霧のなかでのことだ。
嘘だろ。
普段は重たいからだが即座に部屋のドアを開けた。
ドクン、と脈を耳元で感じる。
スニーカーをつっかけて、ふわりと白い闇に沈む道へ飛び出した。
息が切れるのも構わず走っていくと、大通りに出る手前のT字路に、人影が見えた。
ひとりはしゃがんでおり、もう一人は倒れた自転車のそばに胡坐をかいていた。
しゃがんでいる方が、大丈夫ですか、と声をかけている。さっきの黒フードの男らしい。
車は見当たらず、自転車が当て逃げされたのだと見当がついた。声をかけている人物は目撃者なのだろう。
ならば俺がでしゃばる必要はない。
見て見ぬふりで帰ればいい、と思ったが、声をかけている男の白い顔が目に入り
「あ」
と声をあげてしまった。
北村菫だ。また会うとは。
声に気付いた彼は振り返りざま、
「すみません、警察、いや、救急車呼んでいただけますか? オレ、スマホもってなくて」
きびきびと言い、俺の顔に気付くと、彼も「あ!」と声をあげた。
主人を見つけた犬のように歓喜の表情がぱあっと広がる。
「楠谷!」
「おう」
霧のなか、まるで朝日のように爽やかな笑顔を浮かべる北村に、俺はすっかり動揺し、まるで言葉が出てこなかった。代わりにうずくまるもう一人の人物、当て逃げの被害者に近づき、身体を支えた。酒臭いじいさんで、半身を打ち付けたのか、「痛え」と呻くばかりで、全く動けないようだ。
「電話だよな。俺、するよ」
俺は無意識に手にしていたスマホから119番にかけ、状況を説明したあと、警察にも電話をした。
北村はよく見ると細身の黒パーカーにランニング用タイツ、ショートパンツ、といういでたちだった。
じいさんを道路の端にふたりで運び、自転車も寄せる。
救急車と警察が来るまで、三人で待つことになってしまった。
霧のおかげか、それほど苦痛に思わずに……どちらかというとむしろ心地よい緊張感を感じながら、時間は過ぎた。
救急車とパトカーはほぼ同時にやってきて、北村は警察官の質問に答えることになった。
「楠谷、ありがと。もう2時回ってる。時間かかりそうだから、先帰れよ」
そう言われて少しだけ心残りを感じたが、かといって最後まで見届けると言い張る理由も見当たらない。
「おう。じゃ」
「うん、また。おやすみ」
と北村が手を振った。
家族を起こさないように、自分の部屋へそっと忍び足で戻る。
霧で濡れた服を着替えた。
乾いた服の下で肌はすっかり冷えきっていて、背骨がちょっとずつ圧縮されたようにぎゅっと体が縮こまる。北村とのやりとりはあれでよかったんだろうか?
ふと記憶に引っ掛かりを感じ、本棚に目をやると、アイドルの写真集が目に入った。
高校時代に北村から借りたもの、だった気がする。
「そうだ、あいつすごいオタクだったんだよな」
つい、声に出して呟いた。
ぎっちり詰め込まれた棚から力を込めて引き抜くと、当時人気のあったアイドルの水着姿が現れた。北村は彼女の所属するグループのファンだった。特に仲良くはなかったのに、何故か話しかけられたついでに、この写真集を借りた気がする。
そのときの北村の顔がフラッシュバックする。テニス部のくせに色白な彼が、ほとんど真っ赤になって俺に話しかけてきたのだった。
ざわざわする昼休み。俺は模試の対策ばかりしていたから、あの頃のことをほとんど思いだせない。
北村は充実してたんだろうな。
いじけた気持ちが半分と、再会できて嬉しい気持ちが半分。
それから、深夜の霧が不思議な高揚を俺にもたらした。スマホの画面をいじると、かろうじて彼の連絡先が残っていた。
今夜を逃したら、きっともう連絡をとることはないだろう。なんだかそれは勿体ない気がして、文字を打ち込んだ。
<さっきはお疲れ。びっくりした。ところで返したいもんがあるんだけど>
メッセージは送信され、しばらく既読がつかなかった。当たり前だ。スマホを持っていない上に、当て逃げ犯の事情聴取。なかなか帰ることはできないだろう。
俺は、スマホを充電器につないでベッドに横たわった。
いつもなら眠れぬ夜の始まりなのだが、不思議と深い眠りに引き込まれていった。
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