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「わかってやれなくてごめん」
俺はその拳を片手で包んだ。冷たくて堅く、かすかに震えている。気持ちがわかるなんて、簡単にはいえない。誰も誰かの気持ちを、正確に感じることはできない。
なのに、いま、俺は自分が北村になったみたいに、恥ずかしくて心細い。それなのに、訳の分からない情熱が身体を震わせている。
するりと腕が降ろされて、
「もう行くよ」
と彼は言い、拳を収めた。
なんといえばいいんだろう。
言葉が出てこない。
俺は離れたばかりの腕を掴み、彼の身体を抱き寄せた。シャツの布越しに、冷えた汗を感じる。北村がそっとハグを返し、背中を軽く二回、叩いた。
ほんの数十秒、周囲の音が消え、ただ夕風の心地よさと、耳元で聴こえる北村の呼吸、それから預け合った身体の重みと、数か所の不自然な痛みが、感覚のすべてになる。
嘘は言えない。
だから何も言えない。
短い抱擁のあと、北村のスーツケースに俺が手をかけた。
「じゃあ行け。遅れんぞ」
「自分で持てるよ」
北村は真赤な顔で笑ったが、
街路樹の茂る道に立つバス停には、薄暗がりの中、すでに数名の客が列を作っていた。
道の先に視線を向けると、ひとつ向こうの信号で、バスが止まっている。
「竜巻、さ」
北村が不意に、振り返る。
「キレイだったよな」
信号が変わる。綺麗だったかな、と考えている間に、バスは近づいてくる。
ガラ、とスーツケースのキャスターが鳴った。
バスが止まり、扉が開く。列は少しずつ進んでいた。俺は列から外れる。
「うん」
曖昧に頷いて、もっと言うべきことがないか探す。
「気をつけてな」
月並みな言葉しか出てこない。違うのに、普通の顔をした他の乗客に気圧されて。
「うん、じゃあ」
北村は手をあげて、バスの階段に荷物を引き上げる。
ドアの閉まる音がして、窓の中、北村を探す。歩道側に座った北村は、微笑んで手を振る。
その姿が、みるみる遠ざかり、言えなかった言葉が夕闇のなか、ようやく形を成していく。
頑張れだとか、応援してるだとか、待ってるだとか。
言えなかった。
涙で視界が曇る。手の甲でぬぐうと、口に入って塩辛い。
人目を避けるようにしてゆっくりと歩きつづけた。いつの間にか公園の端まで辿り着く。漣はすでに銀の幕になっており、客船の明かりが黄色い輝きを落としている。
竜巻の痕跡はない。
耳鳴りもしない。
何か聞こえればいいのに。
そう思いながら、さらに歩き続けた。いつの間にか、大桟橋が近づいてくる。
曲がりくねる通路を歩いて、昼間と同じ場所へ来た。人影がまばらに散る、展望エリアの先端。
ここでなら、思い切り泣けるような気がしたのに、息があがって涙は止まった。
薔薇色から紫に変わる空が美しく、飛行機が時折よぎった。
北村の出国まではまだまだ時間がかかるだろう。
その時間までなんて、到底ここでは待てない。わかりきっているのに、空を見上げるのをやめられない。
二ヶ月の間に、少しでも金を貯めよう。
それくらいしか思いつかない自分が、情けなく思えた。
「あ……」
携帯が震える。
空港のロビーで手を振る北村の写真が届く。
メッセージはない。
俺は夕空に向けてシャッターを切った。指を差し入れることができそうな、ふんわりと淡いブルーとピンクのグラデーション。
写真を送ると、
<空?>
と短く返ってくる。
<そう>
こちらも返事をする。少なくとも今はまだ繋がっている。
この菫色の空の下。
久しぶりに幸福な溜息をつき、柵に背を預けた。
二ヶ月後。
俺はどんな顔をして、あいつに会いに行くんだろう。
<了>
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