桜色の唇に。触れたいのに唇に。

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 茶葉を蒸らす間、俺は三年前の入社式を思い描いた。  時々おっちょこちょいを発揮する俺は、似たようなビルが乱立するオフィス街に戸惑っていた。東北から上京したばかり、右も左も分からぬ俺は、会社から送られてきた大雑把な地図を握り締めて焦っていた。  あと二十分で入社式が始まるというのに、巨大なビル群に圧倒され、ひとつひとつのビルのぐるりを回ってはここではないと落胆し、早足に行き過ぎるひと波が恐くて尋ねることも出来ずにいた。 「君、新入社員かね?」 「え?」  上ばかり見ていたから、傍らにひとが立ち止まったことにも気付かなかった。  見下ろすと――俺は183センチだから、きっと170前後だろうな――サラサラした茶髪を風になびかせた岡田さんが、やはりニコリともせずに立っていた。  俺にとっては恐怖の対象である『THE東京人』みたいな垢抜けた岡田さんに、応えることも出来ずに固まってしまったのを覚えている。この時はまだ、目元が僅かに細められていることにも気付かなかった。 「その封筒。我が社の入社式に出るのかね?」 「あ……は、はい」 「着いてきたまえ」 「へっ」  緊張して変な息漏れしか返せない俺の手首を掴んで、岡田さんは俺を自社ビルに連れて行ってくれた。その時は、受付まで俺を導いてさっさと踵を返す背中に、お礼のひと言も言えなかった。  でも配属先で係長だった岡田さんを見付けて、偶然に仰天し、やがて恐縮し、深々と頭を下げてまずはお礼と相成った。  ルーティーンになっている思い出をひと巡りして視線をおろすと、砂時計はきっちり最後のひと粒が落ちるところだった。  茶こしを使って岡田さんのマイカップに紅い液体を注ぎながら、俺は頬を綻ばせる。  三年。三年待った。あの無口で無愛想な岡田さんが、時々笑って、紅茶の腕まで誉めてくれるようになった。そろそろ。そろそろ、機は熟したんじゃないだろうか。  紅茶をデスクに持っていくと、岡田さんは、また微かに目を細めてありがとう、と言って桜色の唇をカップに付けた。
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