桜色の唇に。触れたいのに唇に。

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    *    *    *  ――桜色の唇に。触れたいのに唇に。  いつか何処かで聴いたメロディーが、ぐるぐると脳内でヘビロテしていた。俺は頭上の桜は見ずに、岡田さんの艶々した唇ばかりを目で追っていた。  社員旅行はなかったが、この時期、希望者を募って花見をするのが通例になっていた。岡田さんは楽しくもなさそうな顔をしている癖に、毎回律儀に参加している。だから俺も参加する。  岡田さんが自分語りをすることはなかったけれど、アイスティーのペットボトルを片手に、酔って饒舌になった部下の愚痴などを聞いていた。きっと、これも仕事の一環なんだろう。  うらうらとのどかな陽射しを受け、岡田さんの茶髪が明るく光っていた。 「亀梨」  不意に呼ばれて、鼓動が跳ね上がる。 「はい」 「抱いてくれ」 「……はっ?」 「抱いてくれないか」  岡田さんは確かに俺を呼んだし、視線も合ってる。  いや、でも、周りにみんな居るし。焦っちゃ駄目です、岡田さん。 「え……えーと」  冷や汗をかいて固まっていると、不思議そうな顔をした岡田さんが、華奢な拳を伸ばしてきた。 「だ、駄目です。岡田さん」 「何が駄目なんだ。アイスティーを取りたいんだが」 「……へ?」  俺の後ろには、ビール缶やペットボトルが纏めて置いてある。 「あ……はい。どうぞ」  岡田さんの好きなブランドのアイスティーを取って、手渡す。受け取った岡田さんは、キャップをひねって桜色の唇をつけた。  ――桜色の唇に。触れたいのに唇に。  またメロディーが流れ出す。  どうかしているのは、俺の方だった。『退いてくれ』だった。  酒はザルの筈の俺だったけど、そんなこともあって、何だか悪酔いしたようだ。スーツのジャケットを丸め頭の下にして、ブルーシートの隅に寝そべる。  ――ほら、後ろで神様が。剣をかざして待っている。  分かってる。もし拒まれたら、もう岡田さんの下で働くことが出来なくなると。後生です神様。好きになったひとが同性で上司だっただけなんです。  そんな風に祈りながら、俺はフレームレスの眼鏡ごと、片手の甲で瞼を覆った。
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