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最後の訪問者
おばあさんは、一足だけ、おじさんのくつを買って帰ることにしました。
「きっとあなただったら、もとの世界に帰れるでしょう」
おじさんの言葉に、おばあさんは大きくうなずきました。
「じゃあね、また会う日までね」
おばあさんは、帰り際に、おじさんとゴンベエに向かってそういって手をふりました。
「毎度あり~」
おじさんと、シュウゴロウを抱いたゴンベエは、おばあさんが見えなくなるまで手をふっていました。
おばあさんを見送った後、ゴンベエがぽつりとつぶやきました。
「ぼくたち、このままで本当にいいのかなあ……」
「えっ? なんのことだね、急に?」
おじさんがおどろいたようにゴンベエを見やります。ゴンベエも、だまって、足もとにいるシュウゴロウの大きなひとみを見つめています。
そのときでした。
とんとんと、だれかが小屋の扉を、ゆっくりと、確かにたたく音がしました。
おじさんとゴンベエは、思わず顔を見合わせました。
「まさか、さっきのおばあさんがまた道に迷ったのか……? は、はーい、いらっしゃーい……」
おじさんが、あわてて小走りで行くと、小屋の扉を開けました。
「あれっ、だれもいない」
その直後、滝が流れるような大きな音が、小屋全体を包んだのです。
ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ。
「な……なんだ?」
森の中は、いつのまにかうす暗くなっていました。
そればかりではありません。あたり一面が、まるで海底のように、水でおおわれていたのです。
おじさんたちがいる小屋のまわりだけ、まるでバリアがはられているように、水がおしよせていません。
おじさんは、水の中にうごめくものたちを見て、思わず息をのみました。
クラゲ、エイ、マンボウ、タツノオトシゴ、イソギンチャク、ヒトデ、とても大きなクジラ、イルカ、きばを光らせたシャチ、ウミヘビ、川にしかいないはずのメダカ……。
水族館でしか見られないようなものから、見たことのないいきものまで、深海に暮らすものから、川魚もひっくるめて、様々な魚や海のいきものたちが、木々の中から次々と姿を現し、森全体をおおう暗く青白い水の中を、ゆらゆらとゆらめいているのです。
「まるでカオスだ……」
おじさんがぽつりとつぶやきました。
ふいに、シュウゴロウがおじさんの作ったくつから飛び出し、「ウオオオオオーン」とさけび声をあげると、尾ひれをふりながら、小屋を飛び出していきました。
ゴンベエが、おじさんにいいました。
「おじさん、もうこの森を出よう」
「へ? 出るって、どうして? ここがわが家じゃないか。それに、こんなに水であふれていたら、どこにも行けんよ」
「ほら、あそこに通り道があるよ!」
ゴンベエが指さすほうには、どこから差し込んでいるのかよく分からない、かすかなこもれびが光っていました。どうやら、そこだけ水がないようです。
おじさんが、すぐさま反論します。
「道なんかないじゃないか! よーく見てごらん、ジンベエくん、じゃなくてゴンベエくんよ」
ジンベエザメが、小屋の前を素通りしたのを見て、おじさんはぶるぶる震えています。
「でも、このままここにいたら、じきにおぼれて死んでしまうよ」
「ま、まさか……。う……」
おじさんは、ゴンベエの冷静な言葉に、うまくいい返すことができず、うなりました。
「なんでなんだ……」
へなへなとすわりこみ、おじさんは顔をおさえました。
「低い水準でも、それに慣れてしまえば、そこが天国になる。ここは私にとって、浮世の生き地獄から解放してくれる、まるでぬるま湯のような場所だった。それなのに、どうして今さら……」
「何をわけの分かんないことをいってるの! ほら、あっちに道があるよ!」
「分からん。道が見えないよ」
おじさんは、悲しそうにつぶやきました。
「あの光の先に道があるよ! さっきドアをノックした人が教えてくれたんだよきっと!」
「どこかで何かが光っているのは、分かるんだ。でも、あの光は、大水のはるかかなたにあるよ。私はおよげないんだ」
「よく見てよ、おじさん!」
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