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彼女は後ろの校舎を振り返り、上階の窓を見上げた。
「二階に図書館があるんです。上から見ていたら、えっと、河瀬さんでした? が、見えたものですから」彼女は達哉の名札を見て確認してから言った。「いつもお掃除していらっしゃるんですね。警備員の方って、そういったこともお仕事なんですか?」
「ああ、ええ、俺はそう思ってます」彼女に尊敬の混じったまなざしで見つめられると、ちょっと面はゆくなる。達哉は本に目を落とし、それからもう一度彼女を見た。待っている。
仕方なく、達哉は続けた。
「空き缶とか転がっていたら、蹴りたくなるでしょう?」そう言ってから、達哉は気づいた。「あ、お嬢さんは蹴りませんね。でも、世の中にはいるんですよ、ちょっと腹が立つと石を投げたり缶を蹴ったりする人が。でも、蹴ろうと思っても物がなければできませんし、火をつけようと思っても燃える物がなければできないですもんね。それだけで、けっこう事故は防げるもんです」
彼女は目を丸くして聞いている。達哉はそれがどういう反応かわからず、とりあえず黙った。
夢を見るように彼女はちょっと空を見た。
「すごいですね。プロフェッショナルですね!」
達哉が初めて聞く、彼女の生の声というかんじがした。ちょっとうわずった、興奮気味の声だ。
「いや、あなたには負けます。俺は…」
「でも、他の警備員さんがお掃除しているのは見たことがないんですけど、どうしてですか?」
「彼らは柔道とか剣道の有段者ですし、俺は見ての通り、けんかには強くありません。彼らは何か起こったときに対処できるんでしょうけど、俺はできないから起こらないように努力するだけです」
達哉はできるかぎり他人の批判にならないように言葉を選んだつもりだった。人を蔑んではいけない、人を妬んでもいけない、ましてや人を裁いてはいけない。
「でも、それなら何も起こらないようにする方がいいんじゃないんですか?」
彼女は達哉に好感を持ったらしく、達哉の方法をよりいいものと見てしまっている。
「そういうわけでもないと思います。俺は自分の周りにさえ火が来なければいいと思っているだけで、彼らは火が来たら消してしまう力を持っています。根本的な解決をするのは彼らのやり方であることには間違いありません。どちらがどうかという話は、結局わからないもんです」
きらりと彼女の瞳が輝いた。「倫理の先生のお話より面白いですね」
「リンリって何を勉強するんですか?」達哉は尋ねた。達哉も彼女との話が、東岡との電話よりはるかに楽しいことを感じていた。
「つまらない話よ」彼女はちょっとくだけた口調で、本当につまらなさそうな表情をして見せた。「あなたが先生だったら、みんな授業を熱心に聞くと思うわ」
「俺が先生になれるんだったら、ここの生徒さんはみんなノーベル賞をもらえますよ」
「いらないわ。そんなもの」
彼女が怒るように言ったので、達哉は笑った。
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