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■5 噂
ホテルに帰ると、留守中に電話が何度も入っていた。お名前をおっしゃらないのです、とフロントマンはすまなさそうに言った。
「若い男でしょ? 英語の下手な」
達哉が言うと、彼はまだ困った顔で首をひねった。
「下手かどうか…変わった訛のような気がしましたが」
「バスク訛ですよ。ああいう訛の声が爆破予告してきたら、いたずらだと思わないようにね」
フロントマンは一瞬目を丸くし、しかしすぐに笑顔で達哉を見た。
「承知いたしました」
達哉は鍵を受け取り、カウンターを離れようとして戻った。
「つかぬことをお聞きしますけど、この部屋を予約したとき、他にもう一つ取ってますよね? うちの隣とか」
フロントマンはその質問の意味を考え、宿泊者リストには手も伸ばさずに達哉を見た。
「隣じゃなきゃ向かいか、斜め前か、上か下に?」達哉は続ける。
「お答えいたしかねますが」彼は丁寧に言った。
「いや、無理は承知で聞いたんです。申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ、申し訳ございません」
「もう一つ、聞いてもいいですか?」
「はい」
「お名前、見せてもらっていいですか? 俺、漢字は読めなくて」
彼はにこりと微笑み、自分の名札を見た。漢字の下に小さく彫ってあるローマ字を達哉に見せた。
「これは日本の方でも読まれない方、多いですよ。カドノと申します。皆さん、クズノ、とかカツノとかおっしゃりますね」
「へえ。俺は読み間違いもできませんけど」
「わからなければ、聞かれるのが間違いないと思います。お客様は賢明でいらっしゃる」
達哉は首をかしげた。
「ケンメイってのは、いいことですかね?」
カドノ氏は笑った。「ええ、とてもいいことです」
達哉は礼を言ってカウンターを離れ、エレベーターホールの脇の公衆電話でコレクトコールをかけた。リコは通話料の文句を言いながら電話口に出た。達哉が、どうせ経費で請求するだろうが、と言ったら素直に引き下がった。
「今度はマジなんだよ」リコは焦った声で言ったが、彼はいつも焦っている。
「何が」達哉は煙草をくわえた。電話の向こうでもそれを察知したらしく、リコは真剣に聞けとわめいた。「聞いてるよ。おまえが赤字なのは、俺のせいじゃないぞ」
「そんなこっちゃない。『エル・ニーニョ』が生きてるって噂が流れてるんだよ」
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