■1 庭

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 *  橘隆介は黙っていてもじっとしていも金の入ってくる生活をしている。父もそうだったし、祖父もそうだった。ついでに言うと兄もそうだ。祖父の事業は父が受け継ぎ、兄がそれを育てている。  隆介は父の仕事を継ぐ気はなかったし、父の望む結婚もしなかった。父がやってきたホテル業には興味が持てず、それよりもスイスに留学していたときに見てきた世界の優れた生活用品を日本に紹介することの方に熱意をもって取り組んだ。そういった意味では、スイスのホテル学校の生活も無駄ではなかったと言える。  おかげで世界各地に友人ができ、今も彼らとは親交がある。初めは自分で起こした事業の採算がとれず、父に何度も諦めろと怒鳴られたものだが、最後には父も認めてくれた。言うことをきかない息子でも、失敗して落ち込んでいるのを見るよりは成功して笑っている方がいいと彼は言っていた。  妻の咲子が死んでしまったとき、隆介は日本にいなかった。帰国したときには真琴はベビーシッターにしがみついて離れず、隆介を他人のように見つめた。隆介は世界各地を飛び回る生活を、そのとき初めて諦めようかと思った。が、咲子の葬儀が済んで一月もたつと仕事のことで頭がいっぱいになった。娘に恨まれてもいいと日本を離れ、月の半分は日本にいないという生活をしばらく続けた。そのうちに下の人間も育ち、仕事を任せられる幹部も揃ってきた。  隆介は五十才の誕生日に社長を退き、経営からは身を引いた。商品の買い付けや選定の最終判断権だけは持ったまま会長職にある。おかげで娘と過ごす時間ができたとはいうものの、娘は中学生であまり話をしてくれない。困ってフランスの友人に相談したら、娘の誕生日にフランスから贈り物が届いた。彼女の好きなモネの画集だった。  隆介は喜ぶ彼女を見て、ある日曜日、家の庭に池を掘り始めた。手作りの『モネの庭』は四年かかってようやく形が整ってきた。小さな池に小さな赤い小舟を浮かせ、それぞれの季節にそれぞれの花が咲くようになった。池の細くなっているところにも木の橋が架かり、庭の隅にあるベンチに座ると、一番良い景色を眺めることができる。隆介と真琴の共作だった。  真琴は今年、高校三年生になった。高校を卒業したらイギリスに留学したいと言っている。隆介は好きにさせるつもりだった。何をやればいいかわからないよりは、やりたいことがわかっているうちにやってみればいいのである。ティラミスのココアパウダーを唇のはしにつけているような娘を一人で海外に出すのは不安だが、自分も十八で一人、スイスに行ったのである。男と女という違いがあるとはいえ、これからはそういう心配さえ野暮な時代になるだろうと自分に言い聞かせていた。  昨日学校のね、ガラスが一枚割れてたの。石が投げ込まれたんだって。  隆介は娘の母親似の黒い髪と大きな瞳に見とれていたが、ふと我に返った。 「石? いつ?」 「知らない。夜だと思うんだけど、朝、みんなが騒いでたから」  隆介は眉をひそめた。真琴の通う学校は、歴史も格もある私立の女子高校である。幼稚園から大学まであって、真琴は小学校からずっと通っている。 「危ないじゃないか、警備員は何をしてたんだ?」  怒る隆介を見て、真琴は微笑んだ。 「理事長と同じこと言ってる。警備員さんを臨時に増やすんだって」 「その警備員が危ない奴じゃないといいんだけどね」 「心配性だね」  真琴が呆れたように言ったが、隆介は本気で心配していた。妻を亡くしたときに思ったのだ。この子だけは失いたくないと。そしてますます妻に似てくる彼女を、どうしても傷つけたくなかった。 「パパ、私に彼ができたときにそういうこと言うと許さないからね」  最近の真琴はいつもこういって釘を刺す。隆介は内心穏やかではなく、本当に恋人がいるのかどうか探りを入れるのだが、今のところその気配は感じられない。学校と英会話教室とピアノ教室との他には、たいてい庭にいる娘の行動をつかむのは難しくなかった。ピアノも英会話も教師が訪ねてくるので、真琴はほとんどの時間を学校と家でだけ過ごしていることになる。 「ごちそうさま、私、もうちょっと庭にいるね」  真琴はそう言ってから立ち上がった。隆介はうなずいたが、真琴が見ていないのは知っていた。
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