828人が本棚に入れています
本棚に追加
第1話
五月の空は瑞々しく、吹く風は中庭に生い茂る緑の葉を優しく揺らしている。太陽は障子紙を通して畳の上に光の粒を撒き、午後一時、三十畳の大広間が黄金色に輝いて見えた。
「奥田緋月です。この度は、僕を矢代家の正式な家族として迎えて頂き感謝しております」
中庭に広がる初夏の世界はそれほどの美しさを醸し出しているのに、この大広間に漂う空気は瞬きをするのさえ気を遣うほど、重々しい。
「一日でも早く本家での生活に慣れるよう頑張ります。どうぞ宜しくお願い致します」
畳の上に両手をついた俺は、昨夜何度も練習した台詞を淡々とした口調で言った。自分の言葉とは思えない。まるで演劇の台本を読んでいるかのような気分だった。
その言葉を受けて、上座に腰を下ろしていた男が煙管を咥えたままゆっくりと頷く。
「東京での暮らしに、未練はないか」
見た目に比例して話し方や仕草にも重圧感があり、正面からまともに目を合わせただけで圧倒されてしまうほどの只ならぬオーラを持っている男──それが今日この時、俺が生まれて初めて会った「父親」の矢代宵闇だ。
「……ありません」
そう言って俯いた俺に、敵意の籠もった幾つもの視線が突き刺さってくる。大広間には俺の父親の他にこの村の村長や重役達、合わせて十人前後の村民がいた。皆ぎらぎらと目を光らせて俺を見ている。値踏みするような目、見下すような目、拒絶するような目……。彼らが俺を歓迎していないことは一目瞭然だ。
だけどそれには理由があって、俺自身それを充分に理解していた。
何故なら俺は──親父の「妾の子」だから。
「お久し振りでございます」
隣で俺と同じように正座をしていた男が畳に手をつき、親父に向かって深々と頭を下げた。
「この夕凪、オヤジのご命令通り十五年間を緋月様と共に過ごして参りました。緋月様が本家に入られてからも、引き続き世話役の任務を与えて下さり有難うございます」
物心ついた時からいつも俺の傍にいた夕凪は、無口で無表情で、夏でも常に黒服姿という少し変わった男だ。母子家庭で育った俺にとって近所に住んでいた夕凪は父親であり、兄であり、親友だった。……彼が親父の命令で俺を監視していたなんて、ちっとも知らなかった。
十八年間生きてきた俺には、知らなかったことが多すぎたんだ。
まず自分の父親の存在を知らなかった。その父親がS県にある小さなこの村「丑が原村」で絶大な権力を持つ屋敷の頭首だということも知らなかったし、母さんが俺くらいの歳の頃、二周り以上も年齢差があるこの男の愛人をしていたということも知らなかった。
裕福ではなかったけど東京での暮らしはそれなりに幸せだった。学校へ行ってバイトをして、友達と遊んで。俺はどこにでもある「ごく普通の世界」の中で生きてきた。
……だけどつい先日母さんが病気で他界し、この屋敷に引き取られることになって俺の世界は一八〇度変わってしまったのだ。
「緋月、か……」
紫煙を吐いた親父が、しわがれた低い声で言う。
「その名は矢代家に相応しくない。改めさせてもらうぞ」
「え?」
言われた意味を瞬時に理解できなくて、俺は畳から顔を上げた。
「本日よりお前の名を、矢代朱月と改名する。朱は魔を払う縁起の良い色だ。以降は公の場以外でも、自らを緋月と名乗るのは禁止する。良いな」
「あ、朱月……? どうして、……」
動揺する俺の隣ですぐに夕凪が頭を下げた。
「この上なく有り難いお名前でございます。朱月様、父上にお礼を」
拒否権が無いことは初めから分かっていたけれど、今まで住んでいた世界だけでなく慣れ親しんだ名前まで変えられてしまうなど──俺の十八年間は一体何だったのかという気持ちになってくる。
「……ありがとうございます」
不満を抱きながらも渋々呟くと、親父が満足げに頷いて言った。
「これからはお前も矢代家の一員だ。家の名を汚さぬよう節度ある生活を心がけろ。特に今年は、長男が五代目頭首となる大事な年だからな……くれぐれも問題を起こすなよ」
妾の子供は黙って身を潜めていろ。俺にはそんなふうに聞こえた。事実、親父の周りに座っている村長や重役達は、その言葉に同意して頷きながら俺を睨み付けている。
夕凪が周りに視線を滑らせながら言った。
「その次期頭首様がいらっしゃらないようですが。今、どちらに……?」
「夜霧は宮若へ行っている。じきに帰って来る頃だが」
もう、一刻も早くこの場を終わらせてほしい。重い空気も敵意の視線も、痺れた足で正座を続けるのも、そろそろ限界だ。
俺が思ったその時、突然廊下に面した襖が静かに開いた。俺を含め広間にいた全員が一斉にそちらへ顔を向ける。視線の先では、夕凪と同じような黒服を着た茶髪の色男が襖の傍に膝を付き、厳粛な面持ちで頭を垂れていた。
「失礼致します。只今、夜霧様がお戻りになりました」
その瞬間、広間内の空気が変化するのをはっきりと感じた。今までどこか重くぬるりとしていた空気が、黒服のその一言で極限まで張り詰めた鋭いものに変わったのだ。
「矢代家次期頭首──夜霧様にございます」
村長も、他の重役達も、夕凪も。親父以外の全員が緊張した様子で頭を下げている。それを見て、俺も慌てて畳に手をついた。
「遅くなった」
耳朶を震わす低い声。畳を踏みしめるしっかりとした足音。張り詰めた空気の中を悠然と歩く、その姿……。
この男が、次期頭首の矢代夜霧。
上目に盗み見た瞬間、親父の隣に腰を下ろした彼と目が合った。
「っ……」
動けなかった。視線を逸らすことすらできなかった。目が合った瞬間、俺の体は畳に手をついた状態のままで固まってしまった。
その理由はひとえに、彼の持つ異様な雰囲気に圧倒されてしまったからだ。
親父の実子で次期頭首というくらいだから強烈な堅物顔を想像していたのに、現れた男は目鼻立ちが偉く整った今風の顔をしていた。初夏の風に揺れる灰色がかった黒髪と、それと同じ色をした眉。切れ長の瞳、意地の悪そうな唇。高い鼻、がっしりとした長い手足……。男らしいのにどこか妙な艶のある凛々しさだった。
着ている服も、着物姿の親父や村長達と違って普通のシャツとジーンズだ。とにかく外見は全く違うのに、その風格は現頭首である親父と比べても何ら遜色がない。これが次期頭首たる者の持つ「空気」──。
何よりも驚いたのは、そんな彼が俺と同い年くらいの若者だということだった。
「夜霧。今日からお前の弟となる朱月だ。歳はお前と一つしか違わない。面倒を見てやれ」
夜霧がつまらなそうに目を細めて俺を見る。敵意こそ感じられないものの、俺の存在など心底どうでもいいと思っているような……そんな目付きだった。
「聞いてませんよ親父。面倒を見るのは世話役である夕凪の仕事でしょう」
「夕凪は十五年間この土地から離れていたのだ、昔とは勝手が違う部分もあるだろう。何よりも朱月を引き取ったのはお前の為という理由もあるのだぞ。次期頭首ならばこれしきのことは容易くこなせ」
「………」
夜霧が黙ったのに対して、周りの村民達が息を飲む。
「……俺に任せるのなら、やり方に一切口出しはしないで頂きますが」
「無論だ、口出しする気など毛頭ない。お前の好きにしろ」
溜息をついた夜霧が俺を見て、──笑った。覚悟しておけ。俺には彼がそう言っているようにしか思えなかった。
「後は頼んだぞ」
立ち上がった親父に続き、村長他村の重役達が俺達三人を残して広間を出て行く。最後の一人が襖を閉めたところで、夜霧が夕凪の顔を一瞥して言った。
「親父に言われたからには責任を持って面倒見てやるさ。そんなに不安がるな、夕凪」
「いえ、俺は決してそのようなことは」
常時無表情のはずの夕凪が焦っているのは俺の目から見ても明らかだった。夜霧は夕凪にとってもそれほどの相手ということなんだろうか。……夕凪の緊張が、俺にも伝染してくる。
「それで。朱月、だったか?」
「は、はいっ!」
正座した状態で背筋をぴんと伸ばす俺を見て、夜霧が呆れたように小さく息を洩らした。
「お前、年齢は十八だったな。身長はいくつある。体重は」
「え? ……確か一六八センチ、六〇キロ少しくらいですけど……」
「東京ではどんな生活をしていた」
「……普通だと思います。決まった時間に寝起きしてたし……あ、でも食生活は少し乱れてたかも……」
それを聞いた夜霧が露骨に不愉快そうな顔をする。
「喫煙はするか」
「しません」
「薬物は」
「考えたこともないです」
質問に何の意味があるのか分からないけど、聞かれたことだけを答えるのは楽でいい。これで俺のことを知ってもらえるなら、向こうから色々訊いてくれるのは有り難かった。
だけど──
「女との経験はあるか」
「えっ? お、女?」
油断していたら急にそんな質問をされ、瞬時に顔が赤くなった。
「男でもいい。男女関係なく、性交渉したことがあるかと訊いている」
「な、なんでそんなことを……」
初対面の人間に言わなければならないのか。だけど夜霧の真剣な目を見る限り、ただの興味本位で訊いている訳ではないらしい。
仕方なく俺は畳に視線を落として呟いた。
「あ、ありません……一度も」
初めて会った夜霧と長年一緒にいる夕凪。そんな彼らの前でこれ以上なく恥ずかしいことを白状したのに、夜霧はただ素っ気なく「そうか」とだけ言ってジーンズのポケットから煙草を取り出し、一本咥えた。
それから数分が過ぎ、唐突に夜霧が切り出した。
「初めにお前が守るべき本家の規則を教えておく。一度しか言わない。よく聞いておけ」
「本家の規則?」
「お前は必要なく村を出るのは禁止、午後七時以降は屋敷から出ることも禁止だ。テレビやラジオ、パソコン、……これらの所持も許されない」
「ええと……」
「それから漫画、雑誌類、ゲーム各種、アルバイト。……一切禁止だ」
急いで頭の中を整理する。要するに今どきの若者に必要不可欠とされている物は殆どが禁止ということか。……理解した瞬間、頭の中が真っ白になった。
「で、でもそれだと俺は、一体この家で何をして過ごせば」
「一番重要なのは」
俺の発言を無視して夜霧が続けた。
「俺には絶対服従を誓うということだ。口応えしたり規則を破ったりしたら……お前だけじゃない、世話役の夕凪も同罪で罰を与えるぞ」
「罰……」
立ち上がった夜霧がそのまま大広間を出て行く。
「必要な時は俺から呼び出す。それ以外の時間は好きにしていて良い。──以上だ」
真っ白になったはずの頭の中が、今度は一気に真っ暗になった。
最初のコメントを投稿しよう!