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第15話
俺に明日は来ないかもしれない。
それでも暗い廊下を一歩踏み出した俺は止まることなく階段へ向かった。この時間でも階段の下からは明かりが洩れていて、時折親父や重役達の話し声が聞こえてくる。なるべく音を立てないようにと気を付けても、古い屋敷の木製階段は一段下りるごとに俺の体重を受けて、ギィ、と嫌な声で鳴いた。額から汗が噴き出てくる。
「どうされました。……一応注意しておきますが、夜間の外出は禁止ですよ」
階段を下り切った所に立っていたのは夕凪だった。いつもと同じ表情の乏しい顔で廊下の壁に寄りかかっている。こんな所に夕凪がいるなんて、上からは死角になっていて気付かなかった。
「申し訳ありませんが、弟様との会話を聞かせて頂きました。朱月様のことですから、これからオヤジに直談判しに行かれるおつもりなのでしょう」
「……駄目かな」
「これ以上規則を破られると……俺としても辛い結果を覚悟しなければなりません。部屋へお戻り下さい、朱月様……」
「分かってるけど、でも、どうしても俺は……」
夕凪の目付きが変わった。神社で夜霧と対峙した時に見せた、あの鋭い目になっている。
「夕凪、……」
「今度こそ行かせませんよ」
同時に、腕を掴まれた。
「っ……」
捕らえられた腕に熱が走る。それほど強くは掴まれていないはずなのに、俺の腕は押しても引いてもビクともしない。
「夕凪っ、放し──」
「放しません。朱月様は、ご自分が何をしようとしているか分かってらっしゃらないんです」
掴まれた腕を振り解こうとする俺に、夕凪が悲痛な声で訴える。
「貴方を失った俺は、これから何を生き甲斐にすればいいんです。貴方のいない屋敷で、誰に仕えろと言うんです。子供の頃からずっと貴方の成長を見守り続けてきたのですよ。我が子同然の朱月様を失うくらいなら、俺は──」
分かってる。夕凪が本気で俺を心配してくれていること。
「朱月様……いえ、緋月さん。どうかここは堪えて下さい……」
子供の頃からずっと一緒だった、俺の夕凪──。血の繋がりなんて無くても、夕凪はいつでも俺の兄貴で、父親で、親友だった。
「緋月さんの夜霧様を想う気持ちは重々理解しています……。だけどどうか、ご自分を大切になさって下さい……」
抱きしめられた腕の中、幼い頃の記憶が次々と蘇る。
「俺は、絶対に貴方を失いたくないんです……」
一緒に遊んでもらったこと。宿題を手伝ってもらったこと。母さんの誕生日に花束を買ってきてくれたこと。
──大丈夫です緋月さん。貴方には俺が付いてますから。
落ち込んだ時にはいつでも、俺を抱きしめてくれたこと……
「夕凪。今の俺はさ……」
そっと夕凪の胸を押して顔を上げ、小さく笑う。
「……夕凪と同じ気持ちなんだよ」
「………」
俺を抱きしめる腕から力が抜けてゆく。生まれて初めて、夕凪の目が潤んでいるのを見た。
額に手をあてて壁に寄りかかる夕凪が、片手で俺に早く行けと合図をする。俺は唇を噛みしめ、夕凪に向かって深く頭を下げてから長い廊下を歩き出した。
大広間の前に辿り着いた時には、全身が汗で濡れていた。震える指を引手にかけ、気持ちが萎えないうちに一気に襖を開け放つ。どうせ畏まって声をかけたところで中に入れてもらえないのは分かっていたからだ。
「………」
それまで賑やかに談笑していた彼らの空気が一変する。
飯田村長、矢代会会長の荻野、その息子の総司。そしてその他重役達。不気味に静まり返った大広間。全ての視線がこちらを向いていて、その光景に背筋が粟立つのを感じた。
「……何か、用か? 朱月」
冷やかな親父の目、そして声。その禍々しいオーラは瞬時に俺の全身を捕え、その場から一歩も動けないでいる俺の足を震えさせた。
他の連中の目も親父と同じだ。嫌悪というよりは拒絶、敵意というよりは悪意の篭った二十以上の視線が、たった一人の俺に向けられている。本物の悪意が込められた人間の目がここまで恐ろしいものなのだと、この時俺は初めて知った。
「親父……」
それでも俺は負ける訳にいかなかった。一歩ずつ、確実に広間の中へ足を踏み入れる。恐ろしくても、例え無理だと分かっていても。ここで退いたら一生後悔するのは明白だ。
「話したいことがあります。夜霧の……頭首交代のことで」
見切り発車的に口を出た俺の言葉を聞いて、村の連中がざわつき始める。親父は眉一つ動かさずに俺を見ていた。悔しいけどその冷静さや鋭い目は、夜霧のそれと瓜二つだった。
「何が言いたい。何でも答えてやるぞ」
「どうして、ここにきて延期になったんです?」
「大した理由ではない。夜霧の中で、気持ちのぶれが生じているのを知ったからだ」
「それは昔のことなんじゃないですか? 今は夜霧も……」
「今でもあれは迷っている。先日の脱走がその証拠であろう。しかし夜霧は反省し自ら俺の元へ謝罪に来た。その気持ちを汲んで、本来ならば次期頭首失格の烙印を押すところだが……延期という形で手を打ってやったのだ」
「脱走って……」
俺は冷笑を浮かべて親父の目を見た。俺と親父では考え方が根本的に違うということは分かっているつもりだったけど、ここまで違うとなるともはや笑うしかない。
「夜霧がどうして規則を破ってまで祭に行ったかは聞きましたか?」
親父が何か答える前に、俺は続けた。
「簡単な話です。夜霧は丑が原の夏祭りに行きたかっただけなんです。翌日からは社務所で仕事をしなきゃならない、今日しか祭に参加できないからって。……親父、夜霧がそんなことを考えてたなんて知らなかったんじゃないですか?」
「……大の男が夏祭りなど。いい加減、餓鬼ではないのだぞ」
「っ……!」
その瞬間、火が点いたかのように頭の芯がカッと熱くなった。
「……子供の頃の夜霧から、親父が全てを取り上げたせいだ」
考えるより先に口を出た俺の言葉に、親父の眉が僅かに反応する。周りで聞いていた重役達が一瞬俺の言葉に驚いて、だけどすぐに不快感を露わにした顔に戻って行った。
だけど俺は続けた。もう、止まらなかった。
「遊ぶことも、食べる物も、話す言葉も考え方も、将来の夢も。何もかもを夜霧から奪ったからだ。小さな子供が夏祭りをどれほど楽しみにしているか知っていますか。それを強引に奪われた時の気持ちは? ……しかも親父は今また斗箴から同じものを奪い、夜霧の、頭首になることに対する純粋な覚悟の気持ちをも奪おうとしている」
言いながら、どうしようもないほどの寂しさが込み上げてくる。子供の頃から何年もの間溜め込んできた夜霧の気持ちが、今この時俺に乗り移ったみたいだった。
「黙って聞いていれば……」
親父の傍らに座っていた飯田村長が、俺を睨み据えて言う。
「余所者の貴様に何が分かる! 頭首交代は由緒正しき矢代家の重要な儀式であって、貴様のような汚れた雑種ごときが口出しして良いことではない!」
その言葉を無視して、俺は親父だけに訴えた。
「何もかもを勝手に決めたら夜霧が可哀相だ。今からでも夜霧と話し合って、二人で今後のことを決めてほしい。どうか夜霧のことを信じてあげて下さい……」
親父。
目を閉じて強く念じた俺のこめかみを、一筋の汗が伝ってゆく。
しかし──
「……梅吉の言う通りだ。お前がこの件に関して意見するなど、初めから許されていないということを知れ」
「………」
「話は以上だ。部屋に戻れ」
俺はゆっくりと顔を上げ、潤み出した視界の中で平然とそこに座っている親父に人差し指を突き付け、言った。
「……あんたなんか村の代表失格だ。……夜霧の方が、ずっと頭首に相応しい!」
親父の目がカッと見開かれたと思った時、既に俺の体は畳の上に押さえ付けられていた。
「この餓鬼が! 無礼にも程がある!」
「雑種の癖に、たいがいにしろ! 誰のお陰で生きられていると思ってる!」
「その雑種を作ったのは、親父だっ……」
五人がかりでねじ伏せられ、横面を畳に押し付けられる。それでも俺は親父から目を離さず、声の限りに叫んだ。
「夜霧が今まで何を諦めてきたか知ってるのか! 将来の夢があったこと、知ってるのか! 夜霧の葛藤も、斗箴の寂しさも、俺の存在も、全て……! 何もかも、親父が作り出したものじゃないか──」
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