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「んっ、ぁ」
合わせた唇から漏れる吐息が、身体中を巡る熱を煽る。
晶とのキスは、非現実的な日常を忘れさせてくれる、甘美なものだった——
『オィゴラァ!富澤ァ!』
電話口から聞こえてきたどすの利いた声に、引き攣りかけた頰がだらしなく緩んだ。
慣れ親しんだ、愛しい人の声に、気が抜けるのは仕方がない。
余所行きの堅苦しい言葉ではなく、素のままの声を聞くのが一年ぶりともなればなおさらだ。
「晶……やっぱり晶なんだな」
外に出ていてよかった。
昨日から見張るように視線を投げつけてくる滝本から逃げるようにビルを後にした矢先に、見知らぬ番号から着信が届いたら警戒もするものだ。
しかし、電話の相手が昨日まで死んでいたと思っていた恋人となれば、その必要は微塵もない。
もっと声が聞きたい。顔を見て話したい。
聞きたいことはたくさんあった。
この番号にかけたのは別れ際に握らせた紙をたどってだと思うが、電話では足りないほどに聞きたいことが多すぎる。
けれども、続けざまに発せられる怒りのこもった声はそれを許してはくれなかった。
仕方なく、しかし言葉を交わせることに限りない喜びを感じて返事をする。
「あぁ、心配はいらねぇよ。こっちもいろいろあったが……何かあったのか?」
そう問うと、一瞬空いた間にどきりとする。
今、日暮が社長と会うのは危ないと富澤は考えていた。滝本からの警告はあったがそれを除いても、だ。
どちらにしろ日暮はもう戻らないと思っているようだったが、『かがみ』のビルより東堂のもとにいた方が安全だ。そう思っていた。
どういった生活をしているのかはわからないが、晶も怪我を隠している様子などはなかった。では、この間はなんだ。
『せ、せ……性行為を、してるみたいなんだよ!』
最初は小声で、だんだん羞恥が怒りにかわったのか半ば怒鳴るような声で。
肝を冷やして返答を待っていた富澤は、それはもう度肝を抜かれた。
向こう口で日暮と何か言い合っているようだが、そんなことは今はいい。
日暮が性行為を。誰ととは聞かないが相手は想像に足りる。だがそれも今はいい。富澤からしてみれば、細身でそれなりに見目も整った日暮がそういった対象になるのはおかしいことではないと思ったからだ。ただ、それなら晶もその対象になりそうだが、言動からその可能性はなさそうなため安心する。
それよりも今、その言葉が晶の口から出た事が富澤にとって問題だった。
「……くそッ!」
キス以上を許してくれなかった無垢で初心な恋人は、きっと首筋まで真っ赤に染め上げたそれはもう愛らしい表情をしているのだろう。
もどかしい。
一刻も早く素肌に触れて、あの体を抱きしめたい。
顔を見て話しがしたいとばかり思っていた心は、いつの間にか早く晶に触れたいと、そればかりを願うようになっていた。
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