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「社長、少しお休みになられてはどうですか。顔色が」
「うるさい、黙っていろ」
富澤がもどかしさに肩を震わせる一方、『かがみ』の社長室では険悪な空気が漂っていた。
「社長……必要だったら代わりを用意しますし、それに私は……」
「さわるな!」
パシンと軽い音が響く。
滝本が伸ばしかけた腕を、庵司が振り払った音だ。
富澤と対峙していた時とは一変、苦しげに顔を歪めた滝本は一礼して社長室を後にした。
「……どうして、どうしてアイツなんだッ」
『かがみ』の役員から冷静で頼りになると定評のある普段の滝本とは違い、大股で廊下を歩く後ろ姿は怒りに満ちていた。
常から無口である庵司だが、あそこまで不機嫌を露わにするのはひとえに日暮がいなくなったからだと滝本は確信している。
日暮の部屋の片づけを命じられたのも、きっと一刻も早く日暮の存在を忘れようとしているからだ。
庵司は日暮は帰ってこないと思っているのだ、それとももう死んでいるとすら思っているかもしれない。
それでいい。滝本は日暮が生きていることを伝えようとは微塵も思っていない。今後会わせるつもりもない。
しかしいくら滝本が声をかけても庵司の気は収まらないのだ。
それは可愛い息子がもう帰って来ないと嘆くからではない。——その身に渦巻く感情をぶつける的がいなくなったからだ。
「……私が、いるのに」
社長室から離れたところで立ち止まって、苦しい胸を乱暴に掴む。
決して日暮に振るっていた暴力を自分にも施して欲しいと、そう思っているわけではない。ただ、その目をこちらに向けて欲しいだけなのだ。
唯一、唯一七海晶にだけ向けられていたあの目を。
わかっているのだ、長年庵司をそばで見続けてきた滝本には全て。
庵司が七海に特別な目を向けていたことが。
七海が一年前任務に出かけ、帰ってこなかった。
その日から庵司は荒れ出した。
日暮への暴力はもともと多少はあったが、その度合いが顕著になったのは七海がいなくなってからだ。
滝本は歓喜に震えた。
これからは七海にだけ向けられていた目が自分にも向けられるかもしれないと。ずっと一途に想い続けていた庵司への気持ちに気がついてもらえるかもしれないと。
しかし、その願いは叶わず日暮への暴力が増しただけだった。
庵司は七海がいなくなった鬱憤を晴らすようにして日暮に傷を残すのだ。
だからこそ日暮がいなくなった今、今こそがチャンスだ。
他に人を見繕うといったが、あんなの口だけに過ぎない。日暮の生存も、七海の生存でさえ伝える気はさらさら無い。
いつの間にか自分の恋情が歪みきっていたことなどとうの昔に知っている。
だったら、徹底的にやるまでだ。
社長には、庵司にはもう自分しかいないのだと、ゆっくり時間をかけて知らしめればいい。
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