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「午後から外で打ち合わせがあるから、その前にランチでも食べに行こうか」
東堂の誘いはいつも突然だ。
そもそもボディーガードにそんな軽々しく声をかけていいものなのかと思わなくもないが、だんだんとその空気に慣れてしまっている日暮は曖昧に頷くだけだ。
「あ、夜は日暮くんが作ったハンバーグが食べたいなぁ」
いいでしょう?とでも言いたげに目を細める東堂に、日暮はまたも頷き返す。
このやりとりも、日暮にとっていつの間にか日常と化していた。
東堂の元に日暮が派遣されて三ヶ月。
日暮は自身でもはっきりと理解できるほど変わってきていたのだ。
初めは寝床。
七海の叫び声に起こされた次の日からほぼ毎日のように呼び出された日暮は、「これからも一緒に寝ればいいじゃないか」という東堂の一言でゲストルームに戻ることがほとんどなくなった。
毎日ふかふかのベットで体格の良い太い腕に包まれて眠る。初めこそ戸惑いはあったが、時には忙しく働く東堂のボディーガードに疲れ切って、時には念入りに体に刷り込まれる愛撫に力尽きて眠ることで、だんだんとそれが当たり前になっていった。
そう、あれから東堂は傷の手当てだと言ってクリームのようなものを毎日欠かさず日暮に塗りつけるのだ。それはもう丁寧に。意図せず声が上がってしまうほどに念入りに。
傷は目立つかもしれないがとうに治ったものだと思っている日暮は、東堂が何をしたいのかはさっぱりわからない。しかし黙って長い指先で傷に触れられる感触に耐えていた。
次に食事。
今でも食事は東堂のプライベートルームで食べている。
最近では日暮が作った料理を共に食べることも多くなった。
決意した通り七海から料理を習い始めた日暮は、初めてする料理をなんとかものにしようと懸命に努力したのだ。それは七海と交流を深めるのはもちろんだが、もう一つ七海に関して申し訳なく思うことができたから。
七海は東堂のプライベートルームに入るのをひどく嫌うのだ。そのあたりも七海が東堂の秘書として働く理由が何かあるのではと勘ぐる日暮だったが、正直にそれを尋ねた際に「お前と東堂が同じベットで眠ってるところなんて見たくないわ!」となぜかものすごい剣幕で怒鳴られてしまった。それからはできるだけ早く料理を習得しようと心に決めた。
専属の運転手が運転する高級車に揺られてこれまでの日々を思い返す。
そうして考えるのだ。『かがみ』にいた頃とは随分違う、と。
初めて行く場所、初めて食べる暖かい料理、初めて誰かと共にするベット。
何もかも初めての毎日を、いつの間にか自分は受け入れてしまっている。
こんなにも平和に過ごした日々がこれまでにあっただろうか。
本当に何事もなく月日は流れた。
一体いつからだ?
いつからこれが、東堂の元に来ることが、任務だと錯覚していた?
……もともと派遣だと言い渡されていたんだ。
葉の落ちた道路脇の木々を眺めながら、日暮はぼんやりと東堂のリクエストであるハンバーグの材料を思い浮かべていた。
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