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「お前は本を読まないのか?」
あの日、そんな言葉をかけられて、ふと隣を振り返った私の目に映ったのは、本を小脇に抱えた長身の男の姿だった。年齢は見たところ二十歳後半か三十代だったが、彼の纏う雰囲気はとても儚げで、ともすれば体越しに向こう側が透けて見えてしまうのではないかと、そんなことを考えてしまうほどだった。
「誰……?」
目を細めて尋ねると、彼は小さく首を振った。柔らかな髪が揺れ、薄い唇が言葉を紡ぐ。
「俺にもう名前はない。どうやら取られたらしい」
「とられた?」
「神様か仏様か、誰かの仕業かは知らないが、死んでこうなった時にはもう、自分の名前を覚えていなかった。生前、ろくに善行をしなかった報いかもしれないな」
「死んだ……? じゃあ、貴方は幽霊?」
悲しみにどっぷり沈んでいた私にとっては、目の前の見知らぬ男の言動なんて心底どうでもよかったけれど、無視するのも怠くて、そう聞いてみた。すると、男は目をぱちくりさせて、こんな台詞を口にした。
「驚いた。お前は幽霊じゃないのか」
「は?」
「いや、俺はてっきり、その……同類かと」
「私がおばけに見えたの?」
幽霊らしからぬ、彼の間の抜けた顔が可笑しくて、私は微笑んだ。
「まあ、私なんかもう死んでるも同然だから、仕方ないけど」
「いや、お前は生きてるよ。まだその手で、本の触感を味わえるんだろう? 羨ましい」
申し訳なかった、と素直に彼は言い、決まり悪そうに手元の本の栞紐を弄った。
「この辺りで幽霊は俺だけだし、話のできる人間もいないから、人恋しくなったのかもしれない。生きていた頃も人付き合いなんてほとんどしてなかったが、さすがにもうあまりにも長いこと、ここで本ばかり読んでいるから」
「……」
私はなんとなく幽霊の弁解を聞いていたが、ふと思いついて、こう言った。
「じゃ、友達になってあげようか?」
「えっ」
「私、死にたいくせに死ぬ勇気がない、どうしようもない人間なんだ。だから、貴方の話し相手くらいにはなってあげられるよ。私、生きてる人間は大嫌いだけど、死人ならまあいいよ。どうせやりたいこともないし」
どうする? と問いかけて首をかしげた私に、彼ははじめ戸惑っていたが、やがて意を決した顔でこちらへ近づいてきたと思うと、私を抱きしめて額に口付けを落とした。体温のある人間からのそれとは反対に、彼に触れられた箇所はまるで氷のかけらを押し当てられたように冷たくなり、突然そんな奇妙な抱擁に見舞われた私は、思わずぶるりと身震いをした。
「なに、」
「ありがとう」
たぶん、その時だったのだと思う。
見上げた彼の、光の宿らないその茶色の瞳に、まるで高貴な宝石のように浮かんだうつくしい涙の粒を見た時、私はきっと、うっかり恋に落ちてしまった。そんな予定はさらさらなかったのにもかかわらず。
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