幸せの場所

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幸せの場所

次の停車駅、扉の開く音がしてひとりのおばあちゃんが入ってきた。腰が曲がっているけれど杖はついていない、顔立ちは若いころは相当な美人だったのだろうと思わせる整った顔立ちをしている。おばあちゃんは無言で扉に一番近い座席に座った。そうしてまた電気が消えて暗闇になる、がたん、ごとん、がたん、電車が揺れる、あたしがじっとしているとさっきと同じことが起こった。窓に映像が流れだし体が引っ張られた。 鷺洲蛍は88歳にして長年連れ添った旦那を亡くしたばかりだった。夫婦仲が良いと近所でも有名で、ぽかぽかと陽気のよい日には縁側に出てふたりでお茶をしたり、手を繋いで散歩に出かけたり仲睦まじい夫婦だった。彼女は広い和室にひとり毎日の日課である旦那の写真が飾られている仏壇に手を合わて心のなかで話しかけた。線香の煙がゆるやかに立ち上り天へと延びていく。 「おばーちゃんごはんだよー」 少しすると孫の大きな声が聞こえて顔を上げる。 「今行くよ」 その声に応えてリビングへと向かう、ふたりだった夫婦はふたりの子を儲け、長男は嫁を娶りふたりの子を儲けた。一緒には暮らしていないが娘夫婦もひとり娘が居る。幸せだ、とても、とても、幸せだ。結婚した当初には考えられなかったこと。 「おはようおばあちゃん」 「おはよー」 「おはようございます、お義母さん」 「おはよう」 リビングへと行くとそれぞれ挨拶をしてくれる。でもここに旦那の姿はない。ついこの間まで老眼鏡をかけながら新聞を読んでいる姿があったのに。今はもう居なくなってしまった。淋しい思いはあるけれど、これも世の理だ。向こうへ行っても必ずおじいさんが迎えに来てくれる。自分の椅子へと座って並べられた料理を見る。目玉焼きにベーコン、白米に味噌汁。和と洋が混ざった朝食。 「ねえ聞いてよばあちゃん。僕は夏休み沖縄に行きたいって言うのに。ねーちゃんが嫌だって言うんだよ」 足をぶらぶらさせながら孫が言う。ついこの間産まれたばかりだと思っていたのに今ではランドセルを背負う小学生だ。 「当たり前よ、暑い時に熱いところに行くなんて信じられない。北がいいわ、北海道」 姉はもう高校生。高校の制服を初めて着た時にはくすぐったそうにしていたが、今ではもう慣れたものだ。 「ほっかいどー?北海道の何が楽しんだよ!雪ばっかりじゃないか!」 「馬鹿。夏は雪降んないでしょ」 歳の離れた姉弟だけれどふたりはよく下らないことで言い合っている。 「はいはい、ふたりとも。話すのはいいけれどあんまりのんびりしていると遅刻するわよ。ほらお父さんも早く支度しないと!」 「ああ、分かっているよ」 嫁さんの言葉にうなずきながら食べ終えた食器をのろのろと流し台へと持っていく。この子は昔からぼんやりしていて今も変わらない。しっかり者の嫁さんが来てくれてどれだけ安心したことか。ふたりの子供たちは時計を見て「やばい!」と言いながら残りのごはんを口のなかにがつがつとかきこんだ。 「ごほっ」 「これこれ、ごはんはそんなふうにして食べるもんじゃあない」 背中を叩いてやりたいが、孫ふたりは自分とは向かいに座っている。 「ふぇもちほくひひゃう」 「口の中にものを入れた状態で話すんじゃありません」 嫁さんの言葉を聞いているのかいないのか、お茶で一気に流し込み。食器を流し台へと置いて走り出す。 「ランドセルはいいのかい?」 身一つで玄関へ出ていこうとする孫に言うと、彼は戻ってきてランドセルを肩に引っ掛けて走り出した。姉のほうは椅子の隣に準備しておいた鞄を持って駆け出した。 「行ってきます!」 ふたりして声を張り上げて家を出ていく。 「じゃあ、俺も行ってくる」 鞄を手に立ち上がる息子。 「はい、行ってらっしゃい」 それを見送る嫁さん。こうして慌ただしく出かけてしまうと嫁さんとふたり残されるわけだが主婦もなかなかに忙しい。嫁さんは食器を洗うために流し台へと向かった。なんてことない毎日の出来事。 そんなある日のこと、夢を見た。花畑が無限に広がっていてとても美しい光景が広がっている。何処なのか分らないけれど、心が安らぐ場所だった。 「ばあさんや」 遠くから声が聞こえる聞きなれた人の声。長年ずっと一緒にいたとても大切な人の声。ああ、迎えに来たのか。蛍はその声を目指して歩き出し、—気がつくと電車に乗っていた。 映像が途切れ電車の中に戻された。なんてことない家族との団欒、日常のひとつ。最後の最後まで満足出来るよう生きたおばあちゃんの人生。おばあちゃんの居場所はきちんと日常の中にあった。死にゆく場所ですら彼女を待っていてくれる人が居る。人は死んでしまったら何もかもがゼロになってしまうのだと思っていたけれど、十分に生きた人間はああも違うのか。あたしは生きているのに死んでいるみたいで、きっと死んでしまったら本当になにも残らなくて、ゼロになる。ゼロになった後の居場所だって見つからないだろうに、あのおばあちゃんは違う、現世でも、あの世でも居場所がある。送って、泣いてくれる人がいて、迎えて、安らかに微笑んでくれる人も居る。それは、とても、幸せなことなんじゃないだろうか。電車が止まる、彼女は安らかに微笑んだまま、電車を降りて行った。降りる寸前に嬉しそうな微笑を見せたから、きっと旦那さんが迎えに来てくれたのだろう。扉が閉まり、がたん、ごとん、がたん、電車が揺れだした。車内にまた沈黙が下りる。 「ねえ、座ってもいい?」 男の人に聞いたけれど、彼は閉じていた目を静かに開けてあたしを見上げた。 「だめだ」 言葉短く、断られた。がたん、ごとん、がたん、電車が揺れる、揺れる、揺れる。
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