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 おばあちゃんに晩ごはんを勧められたけど、食欲なんか出なかった。縁側のある和室に布団を敷いて、おばあちゃんと四葉ちゃんと一緒に寝た。  蚊帳――実物は初めて見た――を吊って、四葉ちゃん、おばあちゃん、わたしの並びで横になる。四葉ちゃんはちょっとグズったけど、おばあちゃんが抱っこして背中をぽんぽんしたらすぐに眠った。  天使の寝顔に、わたしの気持ちが少しだけ浮上する。 「おなか冷やさないようにね」  おばあちゃんの気遣いにわたしは返事する気になれず、薄い夏掛け布団を頭まで被った。 (……ほんとに涼しいな)  布団を被ってるのに暑くない。むしろ肌寒いくらいで、寝るには理想的だ。  あの灼熱と冷房の地獄で、「もういやだ」と茹だった頭とだるい身体で嘆いてたわたしには天国だ。  涼しさの楽園だ、ここは。  ――なのに。 (帰りたい……)  一日目でこんなことを考えるなんて予想外だった。お父さんが「絶対にホームシックになる」ってからかってきたのを思い出す。  ……家が恋しい、んじゃなくて。  ここに――おじいちゃんたちの家に、この田舎にいたくない。  狸にむごい仕打ちをするのが『当たり前』の場所。  わたしが住む街――都会でも、野良猫や鳩やカラスを車で轢いて、知らんぷりするひどい人はたくさんいるけれど、これはそういうのとは違う気がする。  わたしの『当たり前』が、ここでは通じないような。  死んだ動物を可哀想と思うのが悪いことだと、わたしには思いも寄らなかった。  まるで異なる世界――異界にいるような。  そんな気がした。  最初は嬉しかった涼しさも異質に感じて、わたしはぶるっと震えた。 (明日……お母さんに電話してみよう……)  そんなふうに考えているうちに、わたしは目をつむって、いつしか眠ってしまった。  ……  …………  何か、聞こえる。  甲高い、音。……声?  四葉ちゃんが夜泣きしているのだろうか。と思った瞬間、低い声に変わった。  何かが呻いている。  ごろりと寝返りを打って、わたしは重いまぶたを開けた。開けっ放しの窓の向こうは、黒に近い青の墨を流したような空と、ぽつぽつと見える白い粒々みたいな星。まだ夜中だ。  何気なしに首筋に手をやると、ぬるっ、とした感触がした。 (汗……?)  汗かいてるの、わたし?  全然暑くないのに?  首以外にも頬や腕がぬるぬるしていた。パジャマも湿って身体に貼りついて気色悪い。  手の甲の汗を掛け布団でぬぐうと、横で寝てるおばあちゃんが微かに呻いた。 「おばあちゃん……」  呼びかけたけど、返事はない。  苦しげな呻き声だけが返ってくる。 「大丈夫? 具合でも悪いの……?」  急に心配になって、わたしは手探りでスマホを探した。ホームボタンとライトのアイコンをタップする――と。  パッと明るくなった液晶画面に、赤い液体がついていた。  思わず手を離してしまって、ゴトンとスマホがライトの光を上にして落ちる。強烈な光が室内を照らし出した。  わたしの手は真っ赤だった。  赤い液体が、わたしの手を、腕を、パジャマを……真っ赤に染めていた。 「やだぁ!」  首がむず痒い。もう一度手をやって、ぬるぬるの首筋を撫でる。汗だと思っていたそれは――  血だった。 「おば、おばあちゃん!」  わたしに背を向けて寝ているおばあちゃんの肩を揺らした。おばあちゃんは呆気なくこちらを向いた。  光に照らされたおばあちゃんの顔が、血まみれだった。  目をカッと見開いて、シワのある口元も開けて、両頬に切り裂かれたような傷が一筋ある。その傷から血が、たくさんの血が、流れ、て……。 「いやぁああ! おか、お母さんお父さんっ!」  お母さんもお父さんもいない。それは分かってるけどそう叫んでしまった。 「どうした!」  襖が開いて、寝間着姿のおじいちゃんが入ってきた。おじいちゃんはヒモを引いて電灯をつけた。室内が一気に明るくなる。ぶぅん、と大きな蛾が飛んでいた。  おじいちゃんは「三恵子(みえこ)!」とおばあちゃんの名前を呼んで抱き起こした。おばあちゃんはお人形みたいにぐったりとしていた。頬だけでなく腕もおなかも足も傷だらけで――右腕は半分ちぎれかけていた。 「噛まれたのかっ」  おじいちゃんが傷口を見て言った。確かにおばあちゃんの腕や足には、歯で噛んだみたいな痕がある。そして(すじ)状の傷は、 「引っ掻かれたのか……!」  爪痕、だ。  誰の――何の動物の仕業かなんて、言われなくても分かる気がした。おばあちゃんの白い敷き布団の上に散らかる、黒い毛が確信をもたらす。 「狸め……!!」  おじいちゃんが絞り出すように言うと、庭でガサッと大きな物音が立った。目を向けると、茂みの中にふたつの小さな光があった。  ガサッとまた音がして、ふたつの光が四つに増えた。  さらに音がして、四つが八つに増えた。  わたしが目を離せないでいると、光が……一対の光がどんどん増えていった。  あれは、目だ。  低い位置にある大量の光る目が、こっちに近づいてくる。  室内の明かりが照らすところまでそれらが移動すると、もう分かっていたことだけど、その『目』の持ち主たちが姿を現した。 「……たぬき」  掠れた声が出た。  イラストやゆるキャラのタヌキはまるっこいけれど、実際の狸はスラリとしなやかな面立ちだ。  目の周りが黒くて、つぶらな瞳がボタンみたいだ。長い鼻面に犬よりも短い脚。昼間に会ったらわたしは「可愛い」とはしゃいで写真を撮るかもしれない。だけど今は、この闇夜では、無表情でこちらを見据える狸の群れに、わたしは言葉を失うしかなかった。  狸がこっちに、わたしたちに近づいてくる。  何匹かの毛並みが赤黒く汚れていて……あれはおばあちゃんの……血、だ。
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