第ニ話 青年:堺 珠緒(さかい たまお/二十ニ歳)

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第ニ話 青年:堺 珠緒(さかい たまお/二十ニ歳)

 私は自分で自分の運命を決めた。  だからこうして女ひとりで異国の地に立っているのも、全然偶然とかじゃない。  青年海外協力隊(JICA)には、自らの意志で志願した。派遣先はどこでも良かったけれど、ミャンマーはどうだと言われて、それを快諾した。  ニ年前、成人してすぐに仕事に就いた。いろんな決まりやワダカマリが積み重なって、結局半年も経たないうちに、すぐに職場を去ることになった。  それも自分の意志が招いたことだから、悲観的には考えていない。  しばらく親のスネをかじっていたのだけはゴメンナサイなのだけれど、すぐにやりたい事を決めた。  やっぱり短大を出てすぐの就職なんて早すぎた。成人したからといって、何もすぐに仕事に身を捧げることなんて無い。  そういう見方では描けないものがあるのだ。  そういう道とはまるで違った道があるのだ。  いま考えてみたら、私が好きな言葉もずっと前から、心の中でそう教えてくれていた。  私には可能性がたんまりとあって、先には幾つもの道を持つ未来が拓けている。そこから自分が何を出来るかを探す為には、世界を見る必要があるんだ。友達に話を聞かなくたってそんな事はわかっていた。  父と母には相談して、とても心配されたけれど、私の意思を尊重してもらった。これを最後のゴメンナサイにしようと思った。  一年間バイトをしてがむしゃらにお金を溜めてから、私はホームページからJICAに申し込みをした。  審査はあっけなく通り、すぐに東京は渋谷にある事務所に呼び出された。  最初から決まってたみたいに、私の役目が紙の上に印刷されていた。  なんでも、ミャンマーの中央部にあるマンダレー県に、地域のスポーツ選抜選手を育成する施設があるらしい。そこで水泳のコーチとして、とりあえず四ヶ月活動してみないかというのだ。  どうして水泳のコーチの話が出たかを知りたいって?  それは私が履歴書の『趣味・特技』の欄に、JOCジュニアオリンピックカップ・水泳競技大会の長水路大会記録を更新した事を記載したから。それだけだ。  自慢するつもりはないけれど、特技はそれぐらいしか思いつかなかった。  それも不思議な記憶。小学校でも低学年の時は、スポーツなんて全然駄目、走るのはクラスでビリだったはずなんだ。  確か八歳の時に大きな自動車事故にあって、いっとき心身が駄目になった。傷を克服する為に親が始めさせた水泳が、いきなり自分に向いてるって気づいた。そこから体調はうなぎ登りに良くなり、一気に強化選手に選ばれたってわけ。運命ってわからない。  とにかくその特技は、JICAの採用担当スタッフの目に止まり、才能として買われたらしい。  他にも学歴とかいろいろ見て欲しいし、研究職みたいな事もしたかった。でも高望みはしないでおいた。まずはひとつ何かを始めてみないとって思ったから。  そこから日本を離れるまで、とても早かった。  ミャンマーについての勉強は最低限しておいた。ただ荷造りとかの準備は全然だった。今考えれば、安心しきっていた。  旧い国名も今の名前も、日本人は親しいし、物理的な距離もそんなに離れていないせいか、ちょっとした旅行に行く気分だった。しょっちゅう帰るつもりはなくても、何かあればすぐに戻れるという安心もあったのだろう。  ミャンマーの地を踏んだのは初夏だった。南北に長いこの国はいくつかの気候的な特徴を持っているのだけれど、中央から南にかけては熱帯なので、高温そして多湿だった。  マンダレーの都市はそもそも観光地という事もあって、とても発達していて、美しかった。赤い屋根の王の都、伝統的な白い仏塔郡、観光客向けの美しい絹織物や巻きスカートが露店に並ぶ。見ているだけで外国に来たという感じが一気に高まった。おかげで、遊びに来わけじゃないと、自分をたしなめることを思い出すのに、半日もかかってしまった。  早速コーチの仕事を始めたのだけれど、正直こんなに楽で良いのだろうかと思ってしまった。  見識を広めに来たはずなのに、JICAの現地スタッフや教える生徒たち、そして宿泊施設の人々はみな優しくて、私を招待客みたいに扱ってくれた。  私が外国人の若い女性だから、という要因は大いにあるのだろう。  もちろんそれに甘えたくはない。ここには人生修業に来たのだから。  でも楽しかった。日本では絶対に味わえない空気が、ここにはあった。  今なら言える。会社を辞めて本当に良かったと心から思った。いちばん最初の就職先を半年で蹴った事について、後悔していないと言ったけれど、心のダメージがゼロだったわけじゃない。だから、その後にこんな素敵な体験ができた事は、何よりの慰めになったんだ。  そして何より、私にとっては人生が引っくり返るぐらいの事が、ここミャンマーで起きた。これは本当に予想外だった。  ミャンマーに赴任してから半年が過ぎたある日、私がJICAのオフィスのパソコンで、インターネットをしていた時の事だった。  周囲がいきなりガヤガヤと騒がしくなった。目の端で人の往来が目につき始めた私は、イアホンを外して、そちらの方を見た。  頭の上から背中まである大きな荷物を背負った男性が、事務所の入り口に立って、こちらを眺めていた。  現地スタッフの女性に訊いてみたら、日本からミャンマーに着いたばかり青年が、ここを尋ねてきているらしいとの話だった。  何でも今日来るという連絡が何もなかったので、事務員たちが困っているとの事。  後から知ったのだが、彼は何かの組織の調査員のひとりで、団体では珍しいアジア人のメンバー、さらに日本人だった。  私は何の気なしに、彼を観察していた。長身で私よりも少しだけ年上の感じがした。髪はボサボサでTシャツからはみ出た筋肉質の太い腕は見事に日焼けしていた。  私が見とれていたのに気づいたのだろう。彼は荷物もそのままに、つかつかと歩いてきて、私に流暢なミャンマー語で、しゃべりかけてきた。 「ミンガラーバー。ディーニャ アカンルッ シーバーダラー?(こんにちは。今晩どこかホテルの空いている部屋を知りたいんですけど?)」  私は大いにうろたえた。半年滞在していたが、言葉の方は全然だったのだ。そしてシドロモドロの英語で、自分がここのスタッフでもホテルの案内係でもない事を伝えた、つもりだった。 その発音のおかしさに気づいたのだろう。 「あれ、君は日本人?」  彼はいたずらっぽい表情で、そう私に笑いかけてきた。  一発だった。私はその笑顔で撃沈されてしまった。  異国が放つ独特の匂い。人か気候か食べ物か。それらが混ざる独特の空気のせいで、日本にいた頃にはまったく刺激されなかった私の心に、簡単に火が灯ってしまった。  私は自分がこんなに大胆だとは知らなかった。彼とは一瞬にして知り合いになった。  そして彼の滞在期間がそんなに長くないと知ったせいもあってか、私は一気に彼との恋愛の波に飲み込まれてしまった。  彼がここマンダレー県を訪れたのは、仕事の為、そして現地での調査の拠点のひとつとする為だった。  彼は非営利の国際人権組織「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」の一員で、いわゆる人権に関する専門家だった。  昨今、ニュースやネット記事で世を騒がせていた事件がある。それがミャンマーの西部、ヤカイン州で起きたロヒンギャ(バングラデシュ系イスラム教徒)の過激派によるテロだ。強姦や強奪など、痛ましい報道に耳を痛めた記憶がある。  彼はミャンマー国軍や国境警備隊の隊員たちとの協力の下、この悲劇について人道的な調査を行い、公平な報告書を作るという責務の為にやってきた。  聞けば彼はこれから、西部の危険な地域――日本政府から危険情報が発出されている地域を訪ねるのだという。  想像してみて欲しい。私がプールで笑いながら泳ぎ方を教えているのと同じ時間、彼は銃やナイフで襲われかねない地域を歩き、危険を顧みず、人々に話を聞いて回るのだ。  私はこの差について考えてみた。私がこの人権組織に属していたとして、彼のように調査団に選ばれるだろうか? 絶対にないと確信できた。  そもそも自分に何も手技も知識も無いという事実を別にしたとしても、私が女だから選ばれないのか? 鉄の意志と不服の行動力があれば、性別の差は乗り越えられるかもしれない。  そして昔の私なら、そんな女卑には憤慨したかもしれない。けれど今は駄目だった。心のメーターは完全に女性の方向に振り切っていた。  私は彼の事が心配でならなかった。コーチをしていても心がどこかに行ってしまうぐらい、心配でならなかった。  知り合ってわずか二週間ほどなのだが、彼が西部へと旅立つ日が近づいてくるに連れて、私の心はどんどん弱々しくなっていった。  そうして彼が旅立つ日の前日が来た。  私と彼は昼のマンダレーの街を歩いていた。私から彼を散歩へと誘ったのだ。彼は前日の準備が忙しいにも関わらず、嫌な顔ひとつせず、私を迎えに来てくれた。  ミャンマー最後の王朝となった、コンバウン朝の王宮――今は観光地になっている――に向かって、私と彼は歩いた。  見物客専用の入り口をくぐって広場に出ると、伝統的なえんじ色と金色の縁取りの屋根が美しい王宮の周りを散策した。  楽しかった。私はずっと、彼の手を握って離さなかった。離したが最後、彼が私のもとから離れていってしまう気がしたからだった。 「そろそろ、帰ろうか」  彼は言って欲しくない言葉を告げた。私はいちどぶるっと震えると、気づいたら涙を流していた。  そんな様子をみてとった彼は、ゆっくりとたくましい指で、私の涙に濡れた頬をぬぐってくれた。  私はどうしようもなくなって、彼の汗の匂いがするシャツに抱きついた。筋肉質な胸とお腹に顔をうずめる。  彼がそのままゆっくりと私を導きながら、石のベンチに座られせてくれた。  私が顔をあげると、彼も身をかがめて私を見つめていた。  私は目を閉じた。何かエキゾチックな香水のような匂いが漂ってきて、私の鼻腔をくすぐった。衣擦れの音で彼の顔が近づいてくるのがわかった。  ピタリと彼の体が止まった。  私は若干のもどかしさを感じつつ、こわごわと瞼を開いていく。  緊張する様子の彼の顔が見えた。それまでこちらを見ていたはずの瞳は、細められ、周囲を警戒するように見つめていた。私も驚いて顔をあげると、空気にピリピリとした感触が漂っているような気がした。  どこかで猫がニャアと小さく鳴いた。 「伏せて!」  彼が驚くような大きな声で叫び、私を恐ろしい力で引っ張った。そしてぐっと両腕で抱きとめ、胸元に引き寄せた。  その一瞬は永遠に思えた。  激しい爆発音と金属音が、私の耳をつんざいた。驚く暇もなかった。私と彼の体は石の椅子から地面へと吹き飛ばされ、叩きつけられた。  最初の一撃は彼が身を挺して守ってくれたようだったが、それも無駄に終わった。くらくらする頭をふって起き上がると、隣りで彼が気絶しているのか、頭から血を流して倒れていた。  私は心の痛みで悲鳴をあげそうになった。そして彼に声をかけようと半身を起こした。それが私が人生で最後に犯した、致命的な過ちになるとは、想像もせずに。  何かが爆発した直後に思えた。崩れ落ちた建物から吹き出す煙が広場に漂っていた。煙幕のように何も見えない中で、いきなり恐ろしい発火炎が何度もきらめいた。  これまで生きてきて、それが初めて聞く銃声だった。そして音のする方から発射された二つの弾丸が、私の首もとにめり込んで、体の何かの一部を削り取って外に出ていった。そんな恐ろしい感覚は、感じたことはなかった。  私の体は勢いで数センチ地面から浮き上がった後、肩口から地面に叩きつけられた。  私は頭を強く打ちつけた。  視界が急速に闇に狭まっていく中で私の目が、気絶したままの、ある意味おだやかな表情の彼の額をとらえていた。混乱の最中なのに、わかった。私の大事な人の命に別状は無いようだった。良かった。自分の状況すら忘れ、私はそう心から思った。  体が熱く重かった。私は二度と起きないのだろうと確信しながら、ゆっくりとゆっくりと、目を閉じていった。
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