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ちぃちゃんのお母さんの話
313 :人目の人形さん
10年以上前、お隣に住んでた女の子の話。
その女の子の名前はちぃちゃん。当時5歳だったんだけど、その2年くらい前かな。病気でお母さんを亡くしてるんだ。
もうすぐ小学校に入るちぃちゃん、それから多忙でなかなか家に居られないお父さんの二人暮らしで。
だから、あの子のお父さんが遅い日は隣に住んでいる私の家に泊めたり、夕食を一緒に食べたりして。結構交流があったんだ。
──ちぃちゃんのお父さんが再婚を決めたのは、年頃になりつつある娘のことを考えて、って聞いてる。
あの子の家にきたのは、若くて、明るくて、綺麗な女の人。
彼女はまだ小さいちぃちゃんのことが心配で、って言って、まだ結婚とかそういった話もない内からお隣にきては、泊まり込んでいるみたいだった。
だから彼女がきてから、私とちぃちゃんの交流は急激になくなってしまった。
最後にあの子と話したのはそう、…ちぃちゃんのお父さんと、女の人の結婚式の時。
二人は式場で幸せそうな顔をしていたけど、その近くで着飾らされているちぃちゃんの表情は、どこか暗く落ち込んでいて。
やっぱり、まだ受け入れられないんだろうな。そう思って、私はちぃちゃんの元に行った。
314 :人目の人形さん
ちぃちゃんは、お父さんたちの席の近くに用意された椅子に座って、黒髪の女の子のぬいぐるみを抱き締めていた。
「ちぃちゃん」
「……おねえちゃん」
久し振りに聞いたちぃちゃんの声は、私の家に通っていた時よりもずっと細く、小さくなっていて、私は胸が押し潰されるようで、あの子に何を言えばいいのかわからなくなった。
そんな私の顔を見ながら、ちぃちゃんは小さな声で言った。
「おねえちゃん、ちがうよ。ままは、ずっとままなの」
「ままがいるもん。ちぃちゃん、ままといっしょがいいもん」
握り締められる、ぬいぐるみ。どんな言葉をかけるのが正しいのか、まだ学生だった私にはわからなくて、ただ、ただ、ちぃちゃんの手を握って、あの子の言葉を聞いて。
そんな時、あの子はぽつりと、疲れたような、不貞腐れたような、そんな声音で言った。
「──おねえちゃん。ままって、ひとりなんだよね。ままは、ぱぱとけっこんするんだよね」
「まま、ずっといるよ。ここに、いるよ。ぱぱ、なんであのおばちゃんといっしょにいるの?──まま、すごくおこってるのに。こわいかおで、ぱぱと、おばちゃんをみてるのに」
314 :人目の人形さん
あの子の言葉を聞いた瞬間、私がどんな顔をしたのか、なんて言葉を返したのか。申し訳ないけど覚えてない。
ただ。あの子の持っているぬいぐるみは、どことなく、あの子のお母さんに似ていた。
新しい母となった彼女が前の妻と似たぬいぐるみを買い与えるとは思えないし、お父さんもわざわざ、幼い頃の記憶を掘り返して、寂しい思いをさせるような真似はしないと思う。
覚えてなんて、ないはずなのに。物心もつかないほど前に、ちぃちゃんのお母さんは亡くなっているはずなのに。
辛くなるからと、仕舞い込まれたアルバム。ただの一つの写真もないあの家で、どうやって実の母の姿を知ったのか。
──いや。あの人は、まだあの家にいたのか。幼い我が子を心配して、成仏できずにいたのだろうか。だから──ちぃちゃんには姿を見せていたのだろうか。
『■■■■、■■■■■■■■、■■』
あの子の言葉に驚き、僅かに身を離した一瞬。握り締められたぬいぐるみの顔が、ぐにゅりと歪んだように見えた。
子供がクレヨンで殴り書きしたような、顔。ぐるぐると塗り潰された黒い両目、笑っているような、…または、叫んでいるような、大きく開けられた真っ赤な口。
アレは、新しい妻と一緒になった夫に対し、怒っていた?それとも、夫に知られないよう、影でちぃちゃんを冷遇していたあの女の人を?
或いは、誰にも信じてもらえないあの子を慰めていたのだろうか。
315 :人目の人形さん
あの後すぐ、ちぃちゃんたちは遠くへ引っ越していった。以来一度も言葉を交わしてはいない。
ちぃちゃんのお母さんは、ちぃちゃんと一緒に行ったのだろうか。
なんの言葉もかけられず、寄り添えなかった私に、知るすべは…その資格もないけど。
どうか──あの子が今、幸せに暮らせていますように。
今でも、そう願わずにはいられない。
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