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1.コンサート? なにそれおいしいの?
平成最後の春。
今年は花粉も少なめで、若干鼻はムズムズするものの例年ほどは酷くない。ティッシュの箱を手放せないという情けない状況とは無縁の、そんな3月半ばの、穏やかな陽ざしに包まれた日曜日の午後。
北関東の片田舎で暮らすアラフィフナイスガイの俺は、いつものようにリビングのソファにゆったりと腰を沈め、コーヒーを片手に、ノーパソで趣味のネット小説を書き綴っていた。
-*-*-*-
「引っ込めこの馬鹿おっぱい!」
あたしは目の前の肉まんじゅうを、思いっきり鷲づかみした。
「あふンっ! て、何すんのよこのクソチビ!」ドゲシッ!
「ばほっ」
巴絵が一瞬嬉しそうな声を上げてから放ったハイキックが顔面に炸裂し、小柄なあたしの体は一撃でベッドの反対側まで吹っ飛んだ。
「フーッ」
巴絵が片足立ちの姿勢のまま、息を吐く。
物心ついた頃から習い続けている空手の技が全身に沁みついた、一分のブレもない見事な構えだ。
「まったくもお、何かっていうとすぐ胸を触ろうとするんだから。あんた、最近ちょっとしつこいんじゃないの?」
-*-*-*-
うーん、『鷲づかみ』、『わしづかみ』……。ひらがなの方がいいかな。
いや、それだとひらがなが連続してかえって読み辛い。まてよ、そこよりも『鷲づかみにした』と『に』を入れるべきか。
いやいや、それも変だ。やはりこのままで……。
「ねえねえ、お父さんお父さん」
その時、洗い物を終えた妻が、パタパタとスリッパの音を響かせながら近寄って来た。
「んー?」
慌てず騒がす平常心で生返事をしながら一瞬でWordを閉じ、ニュースページを開く。
ふむふむ、不安倍総理と蓮根議員の不倫疑惑か。なるほどなるほど……。
「さっき、紗胡(さこ)からLINEが来てね。嵐のチケットが取れたんだって」
紗胡とは、我が家の一人娘のことだ。ただいま大学2年生、東京で一人暮らしをしている。
「へー」
嵐か。あいつは小学生の頃から大ファンだったもんな。
まあ俺も嫌いではないけど。なにしろ、紗胡がテレビで嵐の番組ばかり見たがるもんだから、必然的に付き合わされるはめになってたし。
だからと言って、好きかと聞かれると「いや別に」という答えしか出てこないが。
要するに、どうでもいい。
「でさあ。私も一緒に行くから、会場まで連れてって欲しいんだけど」
「いいけど、いつ?」
「11月」
「ずいぶんと先だな」
「そりゃあ、嵐なら当然でしょ」
嵐なら当然なのか。
「でもあれ? 嵐って、解散するんじゃなかったっけ?」
「あのね、今そこ?」
け? と、疑問形になっている時点で、俺がいかに彼のアイドルグループへの関心が薄いかが判るだろう。
実を言えば、俺はこの投稿で巷に溢れる嵐ファンの女性達の多くを敵に回すことになるのではないかと、危惧している。
だがそれでも、書かずにはいられないのだ。
これから俺が足を踏み入れるのは、それ程までに未知なる世界であった。これは、嵐の偉大さに触れ、自分が如何に狭い世界で生きていたかを思い知らされた、無知なる男の懺悔の記録なのだから。
「まあいいや。でさでさ、チケットは3人分取れるから、お父さんも一緒に見ない?」
「え?」
俺も?
「えー? でもなー、うーん」
はっきり言って、どっちでもいい。
とくに行きたいとも思わないけど。でもアイドルコンサートなるものを一度くらい見物しておくのも、悪くはないか。
うん、何事も経験だもんな。
「まあ、いいか」
今、この文章を書いている時点で、この会話をした時から1か月以上が経過している。
今なら判る。この気持ちの籠らない「まあいいか」が、抽選に漏れた数知れぬ女性達の心の傷を、どれほど深く抉るのかということを。
だがこの時の俺は、何も知らなかった。本当に、何も知らなかったのだ。
「やったー!」
両手を上げて喜ぶ妻。こいつも俺と同年代で既にゲフンゲフンな歳だが、やはりいくつになっても、こういうのは嬉しいらしい。
「そんで、どこでやるの? 東京?」
コーヒーカップを口に運びながら。
「ううん、札幌」
「ブバッ!」
思わずコーヒーをノーパソに向かって吹いてしまい、慌ててティッシュを探す。
「ちょっと待て。今、なんて言った」
「札幌」
「もっかい」
「札幌。だって、そこしか取れなかったんだもん」
取れなかったって、取ったのはお前じゃなくて紗胡だろ。
と言うかこいつら、最初からそのつもりで示し合わせて、片っ端から申し込んでやがったな。
くそう、油断した。
二人はこれまでもコンサートには何度となく行っていたが、行先はいつも東京ドームだった。俺は自宅近くの駅まで車で送ったことはあるものの、会場まで同行したことはなかったのだ。
『送って』ではなく『連れてって』と言われた時点で気づくべきだった。
「で、11月の何日?」
「14日」
土曜日か? 日曜日か? いずれにしても日帰りというわけにはいかない。万が一日曜日だったら、1日休みを取らなくてはならない。むうう……。
と、心の中でひとり唸り声を漏らしながら、壁のカレンダーをめくってみる。
11月の……、14日……っと。
「木曜日じゃねえかっ?!」
「だめ? 仕事休めない?」
「むううっ……!」
思わず声に出して唸ってしまう、俺。
はっきり言って、俺は仕事人間だ。
この何十年もの間、有給などロクに取ったことがなく、それどころか土日祝日でも用事がなければ普通に出勤する。
金のためではない、そこに仕事があるからだ。
でも、だからと言って、家庭をないがしろにしているつもりもない。俺は今まで、妻の頼みを断ったことは一度もないのだ。
こういうことを言うと、今これを読んで下さっているご婦人方から『頼まれないと何もしないんだろ、威張るなクズ夫』という声が飛んできそうだが、全くその通りなので反論はございませんです、はい。
とにかく、妻もその辺りの機微はよく判っているので、今まであまり無理なお願いはしてこなかったのであるが、今回はちょっと困ったことになってしまった。
俺はこれでも、会社では強面の経理部長で通っている。
11月の中旬といえば、半期決算のどまん中。そんな大事な時期に、デスマーチ真っ最中の部下達に向かって、アイドルを見に行くからちょっと休みますだなんて、そんな。
だが……。
冷静に考えれば、たった2日だ。1年の365分の2だ。風邪を引いたと思えば、どうってことはない。インフルエンザなら1週間はお休みじゃないか。
思えばこれまで、妻には苦労をかけた。
いや待て、かけたっけ? どちらかというと俺の方が……、まあいいか。
とにかく、愛する家族のためならば!
「よし、行くか」
「やったー!」
再び、妻が両手を上げる。
「じゃあ、ホテルとか飛行機とか、お願いね」
「えっ、俺がやるの?」
「うん」
俺……、そんなのやったことないんですけど。
出張の時の手配とかは、いつも会社が全部やってくれてるし。
つーか、たまに旅行に行くときはいつもお前が……。あ、飛行機はなかったか。
つーか飛行機って、栃木に飛行場ないんですけど……。
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