第10話・終

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第10話・終

 8月13日、月曜日。 「なんなの、これ。変な味がして気持ち悪いんだけど」  一口齧るなり、母ちゃんが顔を歪めた。 「俺と龍吾で開発した20ドルのハンバーガーだよ。牛肉とレタス、マッシュルーム、卵、アボガドとライスも入ってる。マスタードと味噌が効いてて美味いだろ?」 「あんたら、朝っぱらから闇鍋みたいなことしないでよ。申し訳ないけど、これじゃあ1ドルも払えないわ」  野菜やパンの切りくずが散らかった台所で、俺と龍吾は同時に肩を落とした。せっかく時間をかけて開発したのに、まだまだ改善が必要だ。 「全く。これから出掛けるんでしょ? 遊んでる暇なんかないんじゃないの?」 「まだ時間ある。なぁ、本当に不味かった? もう一口食ってみてくれよ」  俺がハンバーガーを差し出すと、母ちゃんが露骨に顔を引き攣らせてそれを拒否した。味見した時はそんなに不味い物じゃなかったと思ったのに。 「龍吾、残念だったな。失敗したみたいだ」 「具を変えるべきかもなぁ。もう一度よく考えて、そのうちリベンジしねえと」  腕組みをして顔を見合わせる俺と龍吾に向かって、母ちゃんが呆れたように目頭を押さえた。 「よしなさい柊くん。こんな馬鹿みたいなことに付き合わせちゃって、迷惑だったでしょ」 「あ。いや、俺は……」  今日の朝飯にハンバーガーを作ろうと言い出したのは龍吾だ。可哀想に、馬鹿みたいなことなんて言われている。  母ちゃんがため息をついて、余った食材で炒飯を作り始めた。 「ところであんた達、今日は何時に家出るの?」 「えっと、10時の新幹線乗るから、9時には出るよ」  時計は午前8時20分をさしている。朝食が終わる頃、丁度いい時間になりそうだ。 「彪史。柊くんの言うことよく聞いて、迷子になるんじゃないよ」 「分かってるって。子供じゃないんだからさぁ」  テーブルに頬杖をついて唇を尖らせると、隣に座った龍吾が小声で俺に耳打ちした。 「まだ子供だろ。すぐ泣くし」 「む」 「それが可愛いんだけどな」 「アホか……」 「あんたら、聞こえてるわよ。親の前でいちゃつかないでくれる?」 「っ……」  今にも触れそうになっていた唇を慌てて離し、俺達は苦笑した。  今日から三日間、龍吾と伊豆に旅行に行くことになっている。運良く龍吾の親戚が経営しているホテルの部屋が取れたのだ。大きな窓から海の見える綺麗なホテル。この数日間、俺は毎日ホテルのパンフレットを見てニヤけては母ちゃんに馬鹿にされていた。  俺が龍吾と付き合ってることは、母ちゃんも薄々感付いていたみたいだ。しょっちゅうお隣に行ってるから当然といえば当然なのかもしれないけど、俺達のことについて「どうなってるの?」とは敢えて訊かずに、「まぁ、そうなんだろうな」くらいに思っていたらしい。  今では母ちゃん公認の仲だ。母ちゃんの前で龍吾と一緒にいると、多少恥ずかしいし不思議な感じもするけど、普通の男女での付き合いだって実際親の前ではこんな感じなんだろうと思う。  男女の付き合いと言えば――。  つい最近、龍吾と買い物に出掛けた時に偶然、帳が丘の繁華街で慶介と会った。慶介の隣には小柄な女の子がいた。慶介の彼女っていうくらいだからてっきり派手なギャルを想像していたのに、その子は大人しく、清楚で優しそうな女の子だった。  驚いたのは、その子が慶介と俺の関係を知っていたということだった。隠しごとができない不器用な慶介だから、恐らく自分から素直に喋ったんだろう。しかも、海に行った日のことも含めて、だ。それでもその子は俺に向かってにっこりと笑い、丁寧にお辞儀をして挨拶してくれた。  慶介にしつこく復縁を迫っていたのも、彼女なりに必死だったからなんだろう。慶介のことが好きで仕方なくて、だから慶介の全てを許し、受け入れたんだろう。「結果的に俺から慶介を奪った女」――そんな彼女にも、彼女だけが持つ複雑な世界があった。  そして俺達が話しやすいように気を遣ったのか、彼女は近くにあった服屋へ一人で入って行った。 「……その人が、彪史の?」  自分の彼女が店に消えたのを確認した後、龍吾を見てそう言った慶介の目は明らかに動揺していた。無理もない。俺だって初めて会った時は、この体のでかさに一瞬竦み上がってしまったのだから。 「よろしく、慶介。ずいぶんと彪史がきみに世話になったようで……」  龍吾は本心からそう言っているんだろうけど、その台詞はもはや慶介にとって脅し以外の何物にもなっていないらしかった。 「す、すいません……! もう二度と調子こきませんから」  何も悪くないのに謝る慶介と、そんな彼を不思議そうに見ている龍吾が可笑しくて、俺は一人、大声で笑った。もちろん、その後にきちんと誤解は解いたけど。  俺と慶介が交わした「新学期まで会わない約束」は、今となっては何の効力もない。その日以降、俺達はまた無二の親友に戻ったのだ。前みたいにカラオケやゲームセンターへ行って、冗談を言って笑い合って、時には他の仲間達も誘って、深夜のファミレスで悩みや愚痴を言い合ったりして――。  きっと、慶介とはずっと友達でいられる。そして慶介の世界も、慶介の彼女の世界も、今よりずっと素晴らしいものになる。  誰も彼も、今いる世界の他を知る必要なんてない。この瞬間、自分が立っている世界を歩いて行くだけだ。時には絶望して立ち尽くすこともあるかもしれない。後悔だって沢山するだろう。だけど、不幸も不運も丸ごと受け入れれば、きっともっと強くなれる。  もちろん、俺達だって。 「………」 「彪史、お前18にもなって泳げないらしいな?」  龍吾のからかうような口調で、俺の思考は遮られた。 「悪いか。別に泳げなくたって、浮輪で浮いてるだけで楽しいじゃん」 「泳げたらもっと楽しいぞ。よし、明日からの旅行は浮輪の持ち込み禁止だ。俺が泳ぎ方教えてやる。バタ足から平泳ぎ、最終目標はクロールだな」 「わざわざ伊豆まで行って、そんなスイミングスクールみたいなことしたくないよ」 「お前はイルカやサメの気持ちを知りたくねえのか?」 「む……」  それを言われたら返す言葉がない。 「せっかくだからそうしてもらいなさいよ、彪史。同級生の子に教わるよりは恥ずかしくないでしょ?」  他人事のように笑って、母ちゃんが炒飯を盛った皿を俺達の前に置いた。スプーンを握り、龍吾が意地悪そうに眉を吊り上げる。 「じゃあ、決まりだな。超スパルタで行くから覚悟しとけ」 「………」  俺は無言で炒飯を頬張り、心の中で溜息をついた。  朝食を済ませ、母ちゃんに見送られてマンションを出ると、強烈な陽射しが俺の目蓋に突き刺さった。  うんざりした顔で龍吾が言う。 「相変わらず暑いなぁ……。彪史、熱中症にならないように水飲んで歩けよ」 「この暑さの中で泳ぐ練習したら、夜は疲れて何もしないまま……朝までぐっすり寝ちゃうだろうね」 「えっ!」 「旅行から帰ったらバイトも始めるから、そうなると疲れてあんまり龍吾とも会えなくなるだろうし……」 「え、えっ……」  さっきのお返しとばかりに眉を吊り上げると、龍吾が慌てふためいて両手を振った。 「いや、彪史。ちゃんと浮き輪持ったのか? それ、荷物重くねえか? 俺が持ってやるから全部貸せ!」 「分かりやすい奴だなぁ……」  俺は苦笑して歩き出した。  太陽の熱に全身を包まれ、少し歩いただけでもシャツに汗が滲んでくる。 「ああ、もう……!」  珍しく、龍吾が取り出したタオルで汗を拭っている。 「暑い!」 「暑いなぁ」  だけどせっかくの夏休みなんだから、暑くならないと勿体ない。もっと暑くなって、もっと汗をかいてもいいぐらいだ。  そうじゃなきゃ、夏に遊ぶ意味がない。 「彪史、誰もいないし駅まで手繋いで行こうぜ」 「いいよ」  繋いだ手のひらにも汗が滲む。俺は龍吾の手を握りしめ、頭上の太陽を見上げて小さく願った。 「眩しいなぁ……」  もっともっと暑くなれ。  この夏一番、暑くなれ。  そして俺と龍吾の描く未来を。二人で歩く、果てしない世界を――。 「お、飛行機雲!」  見上げた8月の青空を、その鮮やかな光で包み込んでくれ。  終
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