第4話

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第4話

 8月1日、水曜日。気温は32度。  太陽が頭上から激しく照りつけ、足の裏にはサンダル越しでもアスファルトの熱が伝わってくる。 「よっしゃ、出発!」  俺達はコウヤの兄貴に借りた車で近場の海に向かった。天気は良好、道もまあまあ良好。大きなタオルと日焼け用のサンオイル、爆音のBGM。  遠くから見る地元の海は真っ青とまではいかないけれど、開け放った車の窓から入ってくる潮風はどこまでも爽やかだ。俺は髪が乱れるのを気にもせず、窓から少しだけ顔を出して金色に輝く太陽を見上げた。 「到着!」  だけど上出来な一日が始まったと思ったのも、現地に着くまでの間だけだった。 「おーい! 彪史達が来たぞ!」  海の家の前で待ち合わせをしていた「彼女いる組」の二人が、俺達を見つけて手をあげた。事前に俺が誘っておいた二人だ。政俊と悠太。この二人は、学校でも俺達と一番仲のいいグループの連中だった。 「おう! お前ら、もう来てたんだ!」  栄治が手を振って走って行き、それにコウヤと明彦が続いた。  俺は、その場で固まったまま動けなかった。 「彪史」  誘ったのは政俊と悠太の二人だ。それなのに、どうして…… 「彪史、どうした? 早くこっち来いよ」  どうして、慶介がここにいるんだ――。 「………」  俺はゆっくりと足を踏み出した。ビーチサンダルの底が、地面にくっついているようだ。皆が、そんな俺を見て不思議そうに目を瞬かせている。それでも俺は急がなかった。皆の所に着くまでに、気持ちを落ち着かせる必要があった。  慶介が、小走りで俺の方に駆けてくる。 「彪史」 「………」  久しぶりに見る慶介は、ほど良く日焼けしていて益々いい男になっていた。青いTシャツからは、剥き出しの逞しい腕が伸びている。  その手が俺の腕を掴み、軽く引っ張った。 「行こう、彪史」 「……うん」  どうしてここにいるのか。聞き出せないまま、俺は慶介と一緒に皆の所へ向かった。さっきまで強烈な陽射しに照らされて汗をかいていた俺の体が、今ではすっかり冷えてしまっていた。  水着に着替えてはしゃぎ回る仲間達。ビーチに突進して行く栄治とコウヤ、余裕顔で砂浜に寝そべる政俊と悠太。明彦と慶介は、海の家でビーチボールや浮輪に空気を入れてもらっている。 「彪史、これ使え。サメは穴があいてて空気入らなかった」  明彦が俺に大きな浮輪を投げて寄越した。 「ありがとう」 「彪史はカナヅチだもんな!」 「……うるさいなあ、慶介」 「あはは」 「………」  俺をフッておいて、どうしてこんなに自然に笑っていられるんだろう。俺は慶介と顔を合わせてからずっと、口数が少なくなっているというのに。 「さてと、そんじゃ俺も栄治やコウヤ達とナンパしに行ってくるわ!」  明彦がビーチボール片手に走って行く。実際はそんなことはないんだろうけど、まるで全員で口裏を合わせたかのように、俺と慶介は二人きりになってしまった。 「ごめん、彪史」 「えっ?」  ふいに慶介が呟いた。 「本当は俺が来るの、嫌だったろ?」 「………」  海の家の屋根の下、俺達は不安げな表情を互いの顔に見て立ち尽くした。 「政俊に誘われてきたんだ。彪史に海行こうって言われたって。だけど俺は誘われてないから、本当は行く気なかったんだけど……」 「うん……」 「でも、彪史と話すいい機会だと思ったから、お前には秘密で来ちまった。ごめん」 「謝ることないよ」 「彪史にひどいことしたから」 「別にひどいことなんて……」  慶介の考えていることが分からない。俺は真っ青な空を見上げて目を細めた。 「来てくれて嬉しい。ありがとう、慶介」 「彪史」 「せっかくだから、今日は遊ぼう」 「……ん!」  俺と慶介はビーチに向かって、同時に駆け出した。  さすがに混んでいる。家族連れやカップルだけでなく、俺達みたいに男同士で来た連中や女の子のグループなんかもいて、皆一様に砂浜で寝そべったり、泳いだり、波打ち際で砂をいじったりして笑っていた。 「慶介、彪史! こっち、こっち」  政俊と悠太が手を振っているのが見えた。 「あ! 彪史はまた、そんな子供っぽい物を持ちやがって……」  悠太が俺の浮輪を指して笑う。 「い、いいだろ別に。泳げないんだから」 「可愛いなぁ、彪史。さすが俺らの末っ子キャラ」 「政俊まで……」  普段学校にいる時と何の変化もないこいつらに、俺は安堵して小さく息をついた。慶介が浮輪の紐を取り、俺を波打ち際へ引っ張って行く。 「彪史、俺が紐引いててやるから海入ろうぜ!」 「あんまり深い所には行くなよ!」 「サメに気を付けろー」  野次を飛ばす政俊と悠太に背を向け、俺達は海に入って行った。くるぶしに纏わり付く砂の感触が心地好い。だけど腰の高さにあった浮輪が段々とせり上がってきて、胸まで海に浸かる頃には、もう俺はつま先立ちになっていた。ごつごつした岩の感触が、かろうじて足の指に触れている。 「け、慶介――」  ついに足場が無くなって、俺は不安げな声で慶介を呼んだ。 「大丈夫。浮輪あるだろ」 「慶介はまだ足着いてる?」 「ん。もう少し……あ、この辺から足着かない」 「大丈夫かよ。溺れない?」  小さな子供が俺達の横をクロールで通り過ぎてゆく。  慶介が俺の方を向いて浮輪につかまり、俺達は顔を見合わせながら波に身を任せた。  頭上には太陽と入道雲。真っ青とまではいかないけど、それなりに青い海。そして、目の前には慶介……。 「彪史、夏休みどっか行った?」 「まだあんまり。先週、栄治達と遊んだくらい」 「俺も、実はこの海が初めての遠出」  えっ。思わず声が出た。 「彼女と遊んだりしてないの?」 「ああ――あんまり会ってねえな」 「……なんで?」 「受験生だから忙しいんだってよ。時間作って遊ぶとか言ってるけど、俺はそこまでして会ってもらいたくねえから。こうして男同士で遊んでる方が楽しいし」 「………」  一瞬、喜んでしまった。そんな俺は嫌な奴だ。 「何気に、ちょっと選択ミスった。とか思ったりして」  慶介が力無く笑う。 「正直言って元カノより、彪史を選べば良かった。俺って馬鹿な奴」 「今更遅いよ。俺は次点繰り上げで恋人にしてもらいたくなんかないねー」  慶介は冗談を言ってるんだと思ったから、俺も笑えた。だけど慶介の顔が段々と真剣なものになってゆくのにつれて、俺の顔からも笑みが引いてゆく。 「マジでさ。彪史の方が好きなんだと思う、俺」 「ほ、本気で言ってんの?」 「………」 「……それじゃあ、……」  今からでも俺と――。  喉まで出かかった言葉を無理矢理に飲み込み、俺は慶介を見て笑った。 「……それじゃあ、もっと彼女と遊んであげなよ」 「え?」 「受験勉強で忙しいのに、わざわざ慶介のために時間空けてくれるって言ってるんだろ? そんなの、超いい子じゃん。会える時に会わないといろんな意味でもっと後悔するかもよ」 「彪史……」 「俺は大丈夫だから」  長い付き合いだから分かる。慶介は本当に不器用な奴なんだ。  俺がフラれてヘコんでると思って、まだ好きなふりをしてくれているんだろう。それどころか、選択ミスだなんて嘘を――。 「……彪史。あぁ、俺マジでお前と付き合いてえ」 「そういうこと軽く言うなよ」  慶介の前髪から水滴が落ちた。 「本気で、さ」 「………」  隠れて見えない海の中、慶介が片手で俺の腰を引き寄せる。 「け、慶介……」 「まだ俺のこと好き?」 「っ……」 「好きだよな、彪史……?」 「な、何言って……」  瞬間、慶介の手が海パンの中に入ってきた。素肌に直接海水があたる、ひやりとした冷たい感触。俺は思わずひっくり返りそうになり、すんでの所で浮輪を掴んだ。 「やめろっ……馬鹿!」 「好きって言うまでやめない」 「んっ……!」  慶介がゆっくりとした手付きで中を撫で回してくる。俺は強く目を閉じ、必死で浮き輪にしがみついた。俺達が海の中でこんなことになっているなんて、誰も気付いていない。楽しそうな笑い声が次第に遠のいてゆくようだった。 「う、あっ……」 「彪史。言えよ」  もう、慶介の声しか聞こえない。 「やめてもらいたくねえから言わないの? 勝手にそう決め付けるぞ」 「慶、介っ……」  この状況で、僅かにでも反応してしまう自分が情けない。俺は両腕で浮き輪にしがみつきながら、何度も首を横に振った。 「海ん中でヤッたらどうなるかな。彪史、知りたい?」 「や、めろ……」 「あれから自分でやったりした? 俺達、一回しかヤッてねえもんな……」 「う……」 「脱がすぞ」 「嘘っ……!」 「暴れたら溺れる。しっかり掴まってろ」 「や、嫌だっ……! 慶介、ふざけんなっ……」  半分脱げかけた海パンを何とか片手で押さえ、俺は目の前の慶介を強く睨んだ。 「俺だってセックスの相手くらいいる」 「は……」  慶介の目が大きく見開かれる。予想外の俺の反撃に、一瞬言葉を失ったようだった。 「……慶介が知らないところで、俺だって前に進んでんだよ。いつまでも慶介が思ってるような俺じゃない」 「それでも、俺の方が好きなんだろ。そうじゃなきゃ彪史は、俺に女と仲良くしろなんて言わねえ。何年一緒にいたと思ってる? お前のことは全部分かってんだぞ」 「慶介のことは好きだよ。でも……」  俺の目も、波と同じように潤み揺れているだろうか。 「今の慶介は嫌いだ」 「………」  頭が熱い。太陽に照らされているのと、泣き出したいくらいの衝動とで、頭の中が燃えるようだ。俺はじっと慶介を見つめて、ただひたすら涙が零れないようにと祈っていた。  慶介が額の汗を拭い、俺の目から逃げるように視線を外す。 「……ごめん」  波の音に混ざって、その言葉がはっきりと聞こえた。 「俺、彪史のこと何も考えてなかったな。ていうかもう、誰のことも考えてねえ。俺はいつも自分のことばっかりだ」 「そうかもね」 「誰からも好かれたくて、誰も放したくなくて、とにかく嫌われたくないんだろうな。……でも、彪史に嫌いって言われてちょっと目が覚めたと思う」 「………」 「ごめんな。もうこんな馬鹿なことしねえよ」 「慶介……」  ほっと息を吐いた俺の手を慶介が握った。 「だから、彪史に一つだけ頼みがあるんだ」 「なに?」 「最後にもう一回だけ、俺達の気持ちを確かめさせてほしい」 「え……」  少なからず驚き、俺は慶介の目をじっと見つめた。  気持ちを確かめさせてほしい。それって、セックスするってことか。 「ど、どういう意味だよ……」  上ずった声で俺が問うと、浮輪に顎を乗せた慶介が上目に俺を見て言った。 「意味……なんてないのかもしれないけど、もう一回、彪史を抱いたら……俺の中で納得できるんじゃないかって、そんな気がしてさ」 「………」  ただ単にヤりたいだけなのか、本気で「納得」したいだけなのか。どっちにしても、俺には何のメリットもない。 「慶介……」  頷いたら駄目だ。頷いたら、もう戻れなくなる。せっかく龍吾に手当てしてもらった俺の傷が、今度は強力な毒となって身体中に回ってしまう。  駄目だ。絶対に、頷くな……! 「い……」 「彪史」 「……一回だけだ」  呟いた俺の手を、慶介が強く握りしめる。 「もちろん。約束する」 「その一回が終わったら、もう夏休み中はお前とは会わない」 「……いいよ」  俺達はたぶん、どうかしてるんだと思う。  普通の高校生として夏休みの思い出を作るために海に来たのに、俺と慶介だけグループから抜け出して、慶介の原付で来た道を戻り、帳が丘の安っぽいホテルに行って。  挙句、俺は自分で自分の傷口を抉ろうとしている。 「覚えてるよな、ちょっと前だ。俺の部屋で、こうして彪史と一緒に寝転がってさ」 「うん……」  覚えてるに決まってる。あの時は本当に、心から幸せだった。大好きな慶介と結ばれるなんて、俺にとって夢みたいなことだったから。 だけど今は、よく分からない。まだ慶介のことが好きなのか、同情してるだけなのか、自棄になっているのか。 ひょっとしたら「どうせこれで終わるなら、最後に少しくらい慶介といい思い出を」――そんなふうに考えていたのかもしれない。 「彪史」 「………」  俺は狭いベッドの上で人形みたいに身体を固くさせて、慶介の唇と舌とを受け入れた。 「ん……」 「彪史、潮っぽい味がする」 「アホ」  慶介の日焼けした逞しい体が、俺の全身を包み込む。汗ばんだ肌と肌は互いに吸い付くように密着し、唇から洩れる濡れた音は、俺を鼓膜から刺激する。脱ぎ去った二人分の服は、既にベッドの下だ。 「んっ、う……あ」  慶介の手が俺のそれに触れた瞬間、体内の深い部分で震えが起きた。初めての行為の時と全く同じ感覚だった。 「彪史、誰とヤッた?」 「い、言わね……あっ、あぁ」 「俺の知ってる奴? ウチの生徒?」  何度もかぶりを振る。 「遊びでヤッただけだろ。本気じゃねえよな」  慶介は眉根を寄せて俺を見下ろしながら、執拗に俺の先端をこねくり回している。 「あ、あ……! やめっ……、慶介っあぁ……」 「そういう声の出し方も、そいつに教わったのか」 「な、なに言っ……」  言われて思い出した。  俺は慶介との初めてのセックスの時、全く声を出してなかった。慶介の前で女みたいに喘ぐのが恥ずかしくて、必死に声を我慢していたんだ。慶介がそれを不満に思っているのには気付いていたけど、それでもやっぱり、恥ずかしくて――。 「知らねえ男に、彪史を横取りされた気分だ。すげえムカつく」 「け、慶介……」 「これで最後なら、これ一回で取り戻してやるからな」 「っ……」  思わず息を飲んだその瞬間、慶介の手が急に乱暴な動きになった。 「あぁっ!」  あの日、男を相手にするのは俺が初めてだと言っていた慶介。慣れない手付きでの慶介の愛撫は、物足りないほど優しかった。それなのに、今は…… 「慶介っ、痛っ……」 「………」  痛いくらいに荒っぽく、激しい動きを繰り返している。俺は身体中に火がついたような熱い刺激に、涙をこぼしながら耐えた。 「彪史、俺以外は見るなよ。もう他の奴とするな」  優しく囁いている慶介の目は冷たく光っている。俺を責めるような目付き。 「お前が……俺をフッたから、俺はっ……」 「男とは付き合えない。けど、たまにこうして良くしてやるから……だから彪史、俺から離れるなよ」 「勝手な奴……! あっ……」 「勝手でも何でもいい。お前のことが好きだ」  広げられた脚の間に慶介の腰が入ってくる。俺は古臭いホテルの天井を見つめ、まだ準備もできていないままで慶介のそれを受け入れた。 「嘘つき……」 「嘘じゃねえ」  それが本当なら、どうしてそんな冷たい目で俺を見ているんだろう。  他の男に嫉妬するくらいなら、どうして初めから俺を選ばなかったんだろう。 「……俺じゃあ、駄目なの……?」  ゆっくりと慶介に貫かれながら、俺は途切れ途切れに問いかけた。 「なんで……あんなに仲が良かったのにっ……。なんで俺じゃあ駄目なの? 友達から恋人にはなれないのかよ……?」 「彪史……」  心からの気持ちを吐き出すと、慶介の目が、ほんの少しだけ優しくなった気がした。 「……俺は長男だから。結婚して子供作らなきゃいけないから。結婚するまで彪史と付き合うことはできる。だけど、いつかまた傷付けることになる……」 「……体だけの関係なら、傷付かないって言うのかよ……」 「………」 「あっ……そんな理由なら、あっ、初めから俺と付き合うなよっ……! これだけ好きにさせて、期待させてっ……。言ってることとやってることが矛盾してるだろ……あっ!」  俺は慶介に貫かれながら泣きじゃくった。喘ぎながら泣きじゃくった。辛そうに顔を歪めた慶介が、上から俺の涙を手で拭う。 「ごめんな、彪史……。だけど付き合えなくても、お前を好きって気持ちは嘘じゃない。ヤッたら彪史が傷付くって分かってんのに、どうしても……彪史が好きで止まらねえんだ」  そう言って、慶介がより激しく腰を前後させる。その動きは自棄になっているようにも、本気で俺を取り戻そうとしているようにも見えた。 「あぁっ……! やっ、ぁ……慶介!」 「ごめん……」  結婚して子供作らなきゃいけないから――。  慶介が呟いた言葉の重みを理解し、急に切なくなった。  慶介は今、自分の力ではどうにもならない、どこまでも混沌とした複雑な理由を持って俺を抱いている。それなのに俺は、自分の気持ちを慶介に押し付けようとして。自分のことしか考えず、思い通りにいかない、何で俺だけこんな目に、と泣き喚いて。  慶介が真剣に向き合っている問題は、同じ長男である俺にとっても大事なことなのに。俺は問題から目を背けて、気付かないふりをして……。  俺はなんて奴なんだ。勝手なのは慶介じゃない。俺の方だ――。 「慶介っ……、あっ、あ……!」 「好きだよ、彪史。親友としても、男としても、彪史が一番好き……。すげえ好き……」  俺はその首に腕を回し、自分の方へ引き寄せた。  耳元で、慶介が激しい息遣いと共に囁く。 「彪史も好きって言ってくれ。嘘でもいい……その一言で、俺は……」 「んっ、あぁっ……!」  それでも俺は、慶介に応えることはできなかった。  完全に嫌いになってたら、心を隠して好きだと言えたかもしれない。或いは付き合い初めの頃と同じくらい今も慶介が好きだったら、当然好きと言えただろう。  フッ切る決断をして、少しずつ傷も癒えてきて、だけどまだどこかで彼を好きなのかもしれない、今の俺。好きだなんて口に出して言ったら、もう二度と慶介から離れられなくなる。 「彪史……」  辛そうに顔を顰める慶介の口元へ、そっと唇を寄せた。 「ん――」  これがたぶん、最後のキスになる。だからずっと忘れないように、記憶にも身体にも残るように。 「は、あっ……」  絡めた舌は涙の味がした。ハッとして目を開けると、慶介も泣いていた。  ――俺達にとっての「今日」が終わろうとしている。  午後七時少し前、原付から降りた俺と慶介は、俺のマンション近くの児童公園で最後に軽く抱き合った。 「今日は会えて良かった、彪史」 「……うん」 「……それじゃあ、……」  握り合った手が離れてゆく。名残惜しそうに、ゆっくりと。 「今度会うのは新学期に、学校でだな」  慶介の笑顔に、俺は力強く頷いた。  茜色の空の下、二人の影が伸びている。たった今まで一つに溶け合っていたかのような影はやがて二つに分かれ、俺と慶介、それぞれの形になった。 「バイバイ、慶介」 「ああ」  立ち尽くす俺から離れてゆく慶介の強さ、優しさ。慶介はこの数日間の中で、不器用ながらも驚くほど成長していた。  もしも、俺がその背中を追いかけたなら。慶介は怒るだろうか、それとも笑うだろうか? 「慶介」  呟いた声が風に乗り、慶介の耳に届くようにと祈りながら。 「……大好きだったよ」  夕闇の中、俺は慶介に背を向けて走り出した。
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