第5話

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第5話

 涙が止まらない。  慶介との恋が終わったとか、お互いに好きなのに結ばれないとか、そんなのが悲しくて泣いてるんじゃない。  無力な俺ではどうにもならない沢山の事情があって、少しずつでも向き合っていかなきゃならないのに、一人だと怖くて、不安で、抱えきれなくて……逃げ出したいのに、それもできなくて。苦しくて歯痒くて、俺は叫び声をあげる代わりに涙をぼろぼろ流しながらマンションへ向かった。 「……ただいま」  靴を脱ぎ、玄関の鏡で涙の痕がないかどうかを確認する。若干鼻は赤くなってるものの、このくらいなら日焼けのせいにできそうだ。 「おかえり、彪史。ちょうどいいタイミングに帰ってきたね」  母ちゃんが笑顔で俺を出迎える。リビングには俺の好きなトマトソースパスタの匂いが漂っていた。 「海で泳いで疲れたでしょ。夕飯食べた? お腹空いてると思って、一応夕飯作っておいたんだけど」 「………」  拭って拭って、消去したはずの涙がまた溢れそうになる。俺はそれを何とか堪えてテーブルの前に座った。 「腹減った! いただきます!」 「ちょっと! 手も洗わないで、この子は……。あら? 海行った割には、あんまり日焼けしてないわねぇ」 「日焼け止め塗った。俺すぐ赤くなるからさ」 「あー、小さい頃とか大変だったわね。懐かしい」  口一杯に頬張ったパスタもまた、懐かしい味がした。 「……美味しい」 「そうでしょ、ソースが美味しいのよ。市販で買ったやつだけどね」  料理があんまり得意じゃない母ちゃんだから、ソースから自分で作るようなことはしない。だけど父ちゃんがいた頃は、休みの日になると昼過ぎから手のこんだ夕食を作っていた。見た目も味も普通の料理を、テーブルいっぱいに並べて得意げに笑っていたっけ。  小学校の遠足の時は、弁当箱に俺の好きなハンバーグとパスタを入れてくれた。チキンライスに入っていたグリーンピースを残して怒られてからは、こっそり捨てるようになった。  中学に入ってからは、昼食はコンビニで買うようになった。高校に上がってからも、ずっと。味や見た目がどうのとかじゃなくて、単純に「母ちゃんの作った弁当」を持って行くのが恥ずかしかったから、朝、テーブルの上に用意されていた包みに気付かないふりをして家を出たこともあった。  仕事が忙しい母ちゃんは、父ちゃんと離婚してから夕食も簡単なものしか作らなくなった。俺もそれで構わないと思っていた。 「………」  母ちゃんの作った料理、こんなに美味かったんだ。  また視界が潤みだす前に、俺は立ち上がってニッと笑った。 「そうだ、龍吾に母ちゃんが作ったパスタ持ってく」 「またお隣行くの? そんなにしょっちゅう行ってたら迷惑でしょ」  呆れたように肩をすくめながらも、母ちゃんは嬉しそうだ。俺は新しく皿にパスタを盛り、浮足立つ思いで玄関に向かった。 「龍吾喜ぶよ。こないだも母ちゃんの作った飯、美味いって言ってたもん」 「あ、彪史。それじゃあ一緒にサラダとドレッシングも持ってってあげなさい」  まるで給仕みたいだ。俺はトレイにパスタとサラダを乗せて外に出て、隣の207号室の呼び鈴を押した。 「――お、彪史。どうしたそれ、ルームサービスか?」 「これ、母ちゃんが飯作ったの。龍吾にも食わしてやるよ」 「毎度毎度申し訳ねえなぁ。ま、せっかくだから上がってけ」  トレイごと龍吾に渡して、俺はサンダルを脱いだ。 「龍吾、もう飯食った?」 「今日は朝飯しか食ってねえから腹減ってるよ。基本的に不規則生活だからな」  いっそのこと、これから飯はうちで一緒に食べればいいのに。母ちゃんも喜ぶし、俺も運ぶ手間が無くなる。  テーブルの上に皿を置いて、俺はソファに浅く腰かけた。龍吾は相変わらずのTシャツとハーフパンツ姿で、早速俺が持ってきたパスタにがっついている。 「美味い。やっぱ彪史の母ちゃんの作る飯は、俺の好きな味だわ」 「そう言うだろうと思って持ってきたんだ。それ、俺が一番好きなメニュー」  あっという間に平らげて満足げに笑った龍吾が、そのままの笑顔で俺に言った。 「で、海はどうだったんだ? 楽しかったか?」 「うん。楽しかったよ」 「棒読み。何かあったのか?」 「………」  慶介を除けば唯一、俺が自分を隠すことなく話せる相手。龍吾はいつも俺の心を見透かしているようだった。 「兄ちゃんに正直に言ってみろ」 「慶介が来たんだ」 「……ん。それで?」  俺は膝の上で両手の指を擦り合わせながら、今日あった出来事をぽつりぽつりと龍吾に打ち明けた。セックスしたことも、好きだと言われたことも、夏の間は二度と会わないと約束したことも。 「ちゃんと別れてきた。あいつの気持ちも聞けた」 「それで彪史は納得したのか?」 「……うん」 「納得してねえな」 「そんなことないけど……」  何て言ったらいいのか分からない。当事者である俺でさえ、複雑すぎて全てを飲み込めたわけじゃないんだ。 「慶介の家は自営業で、慶介は長男だから、将来は後継ぎとかも必要だろうし、結婚しなきゃいけないんだよ。だから俺よりも女の子を選ぶのは仕方ないんだって」 「ふぅん。今どきの若者にしては、随分としっかりした考えを持ってる奴なんだな。それが良いかどうかは別としても」 「俺もそれ聞いて、慶介はそれでいいんだって思ったんだ。慶介の将来を潰したくないし、俺が嫌でフッたわけじゃないって分かったから。それでいいんだって……」  言いながら、視界が歪んでゆくのを感じた。やっぱり俺は、どこかでまだ慶介に未練があるのか。 「それがお前達にとって正しい答えなのかは分からねえ。けど、慶介がそれで幸せになるって言うなら、彪史も同等に幸せになんねえとな?」 「……慶介に比べたら、俺は何も考えてない。俺だって長男なのに。父ちゃんもいないから、早く結婚して母ちゃんを安心させてあげなきゃならないのに……。なぁ龍吾。俺も、今からでも女の子と付き合った方がいいのかな。少しずつ慣れていけば、そのうち女の子も好きになれると思う……?」  龍吾が俺の隣に座り、回した手で肩を撫でてくれた。その頃にはもう涙が止まらなくて、俺はしゃくりあげながら龍吾の肩に頭を乗せた。  耳元で、龍吾が低く囁く。 「勉強していい成績とるとか、就職するとか、母ちゃんを安心させる方法なんていくらでもあるだろ。無理して結婚したとしても、誰も幸せになんかなれねえぞ」 「分かんないんだよ……。何が最善なのか、俺はどうすればいいのか……。なんで俺、男が好きなんだろう。なんで俺は、普通の人と違うんだろう……? 全部全部、俺には分からないんだ……」 「彪史の年齢じゃ、分からないのは当然だ。俺だってとっくに成人越えてるのに、未だに自分のことなんか分かってねえよ」  俺は涙に濡れた目を龍吾に向けた。 「龍吾も、俺みたいに悩んだことあるの……?」 「ある」  優しく俺の髪を撫でる龍吾の大きな手。絡む指が心地好くて、俺はそのまま龍吾の胸に顔を埋めた。 「……俺みたいに泣いた? 俺と同じ年齢くらいの時?」 「つい最近、だ」 「え……」  頭上から龍吾の声が降ってくる。 「俺が引っ越してきた理由、言ってなかっただろ。ここに来る前、ずっと同棲してた奴がいたんだ。学生の時から付き合ってて、俺にはこいつしかいないって思えるくらいに好きな男だった」 「………」 「だけど俺が今の仕事をするようになって生活が不規則になったから、同じ部屋で住んでてもすれ違いが多くなって、会話が無くなっていって……。それで、愛想つかされたってわけ。ある日仕事の打ち合わせから帰ったら、そいつの荷物が綺麗さっぱり無くなってた」 「……出て行かれたの? 探さなかったの?」 「探したさ。知り合い全員に連絡取って、必死になって探した。……でも、見つからなかった。あいつは見つけてほしくなかったんだ」  俺を抱きしめる腕に力が込められる。 「あいつとの思い出が詰まった街だったから、一人でいるのが辛くて八上町に越してきた。新しい環境に移れば、フッ切れると思ってな」 「………」  初めて、龍吾の過去を聞かされた。龍吾にとって辛い思い出を打ち明けられた。俺と同じくらい、いや、それ以上に辛い恋の結末……。  俺はどうしてショックを受けてるんだろう。  俺が想っているのは慶介だったはずじゃないのか。それなのにどうして、顔も知らない龍吾の元恋人に嫉妬してるんだろう。 「まだその人のこと、好き……?」 「彪史は、まだ慶介のことが好きか?」  相変わらず、龍吾ははっきりとは答えない。  本当は分かってた。もう認めるしかなかった。 「……龍吾」  俺、一人になりたくないんだ。  龍吾に、傍にいてほしい――。 「ごめんね」  俺は龍吾の胸を軽く押して、ソファから立ち上がった。乱暴な手で涙を拭い、真っ直ぐ玄関へと向かう。 「彪史?」 「皿、洗わなくていいよ。明日取りにくるから。もう帰らないと……」 「おい、ちょっと待てって」 「ごめん、今だけ放っといてほしいから」 「彪――」  引き止められる前に外へ出る。背後で閉まったドアにもたれかかった瞬間、口を塞いだ両手の指の隙間から、小さく嗚咽が漏れた。 「う……」  今更、気付いた。  慶介を失った絶望の中で龍吾が隣にいてくれたから、俺は少しずつ立ち直る努力をすることができたんだ。  大人な龍吾。頼れる龍吾。俺はゲイだから、父親がいない子だから。だから、そんな彼にとことん頼って甘えても許されるんだと思っていた。俺は可哀相な子だから、常に隣に慰め役がいるべきだなんて本気で思っていた。  だけど龍吾は、突然現れた俺の救世主なんかじゃなかった。兄でも父親でもなかった。  過去があって、これまでの長い人生があって、傷付いたり喜んだりして、愛した人への想いを断ち切るためにこの街に来たんだ。俺を慰めるために来たわけじゃない。慶介の代わりになるために来たわけでも。  そんな当たり前のことに、たったいま気付いた。だけどもう、遅すぎる。  一人になりたくない。先のことを考えると、怖くて仕方なくなる。息ができないほどに辛くて、このまま意識を失ってしまいたいとさえ願った。 「はぁ……」  このままじゃ家に入れない。今さら涙を拭ったところで、目も鼻も真っ赤になっている。母ちゃんに見られたら、何て言えば……。 「……別にいいか」  俺はTシャツの袖で適当に顔を拭き、そこから数歩移動して自分の家のドアを開けた。 「ただいま……」 「彪史、おかえり。……どうしたの、その顔」  案の定、真っ赤になった俺の顔を見て母ちゃんが目を丸くさせている。リビングにはまだパスタのいい匂いが残っていた。俺はテーブルの横に立ち尽くして俯き、もう一度袖で目を擦った。 「柊くんと喧嘩でもした?」 「ううん」 「じゃあ、どうしたの」 「………」  真剣な表情で、だけど声色は優しく、母ちゃんはまるで小さな子供を相手にするかのように、椅子に座ったまま身を乗り出して俺に問いかけてくる。 「何かあったなら、言ってちょうだい。この短い時間で泣いて帰ってくるなんて、お母さん心配でしょうがないよ」  こんなふうに言われるの、小学校の時以来だ。あの頃は何があったんだっけ? ああそうだ、人気キャラクターの絵がついた新品の給食袋を、隣の席の子が持ってた古いやつと無理矢理交換させられたんだ。母ちゃんは怒って、その日のうちにその子の家に電話をかけてくれた。  嫌だったら嫌って言いなさい。思ってることを隠しちゃ駄目。  泣きじゃくる俺を抱きしめて、そう言っていたっけ……。 「大丈夫」  俺は母ちゃんから目を逸らして呟いた。 「ちょっとしたことで龍吾と喧嘩しただけ。俺が悪いし、今度会ったら謝っておくから。だから、大丈夫」 「彪史……」  まだ何か言いたげにしている母ちゃんに背を向け、俺は自分の部屋に入ってベッドに倒れ込んだ。  強烈な自己嫌悪。誰も悪くない、俺の勝手な被害妄想。  どうしてこんなことになってしまったんだろう? いつからか俺は、人生の選択肢で選ぶべき道を間違えていたに違いない。  慶介の告白を受けなければ、今でも親友としての関係が続いていたかもしれない。 あの日龍吾を誘わなければ、本物の兄弟みたいになれたかもしれないのに。 「う……」  それ以前に、慶介に出会わなければこんなに苦しむこともなかった。共学に通っていたら女の子とも上手く接することができたかもしれないし、両親が離婚しなければこのマンションに来ることもなかった。  悔やんでも遅すぎるし、どうにもならないことばかりだ。  足掻いても足掻いても、見えない力によって蟻地獄に引きずり込まれるような感覚。決して地上には出れず、努力が報われることはない。  この先もきっと、こんな日々が待っている。蟻地獄の底で、俺はうずくまって泣き続ける。怖くて悲しくて辛くて、そして「幸せな普通の人」を妬み続ける。  解放される時は、来るんだろうか。
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