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(一)
市電浅川線は、市内に唯一の、チンチン電車である。
電停「高雄中学」を出発し、「高雄駅前」行きの表示灯を輝かせたローズレッドを基調とした車体は、時速三十キロそこそこで、ゆるゆると走行していた。
高雄中学から二つめの電停「高雄図書館」へと向かう途中、大戸橋という橋がある。ここで浅川線は右へ方向転換し、北向きに針路を変える。車体が橋に差し掛かると、上って行く坂の上に、駅前の高層マンションが聳え建っている。
橋の架かる川の河畔には、桜並木が続いている。橋は全長二十メートル弱。両岸から一定間隔で植えられた桜の枝は川面へ向かって半ば枝垂れるように長く伸び、対岸から伸びる枝と交差している。
桜は今が満開。薄いピンク色の花が川面の上に花のトンネルを形作っている様は、まるで天国のようだ。川岸には満開の桜を見ようと、多くの人達が溢れ、幸せそうに桜に見入っている。
満開の桜とはまるで無関係のように、市電の座席で頭を抱えている少年がいた。「高雄中学」と胸に黒字で刺繍された、白い野球のユニフォームに身を包んでいる。背番号は10。
真っ黒に日焼けした顔に、丸刈りの頭。長身で手足や腰回りは太く、逞しい。
「あーあ」
少年は大きなため息をついた。
「元気出してよ」
頭を抱える少年の隣で、詰め襟の制服を身に着けた、色白の少年が声をかける。隣の少年とは対照的に、小柄で華奢。やや眉が下がり気味で目元が優しい。
「無理だ」
日焼けした少年は一言言うと、頭を抱え続けている。
「エースナンバー背番号1を剥奪。今日の試合、スタンドで見てろだぜ。俺はリトルで全国優勝したピッチャーなんだぜ。酷い仕打ちだろ」
「それは仕方ないよ。だって、中学では二年間勝ち星なし。全試合一回でノックアウトだろ。それでムシャクシャしてチームメートと大ゲンカ」
「ああ。お前に言われなくてもわかってる。練習では超一流。試合では打ち頃のへぼいピッチャー。全部俺が蒔いた種だ」
日に焼けた少年、松浦大輔は、一瞬顔を上げた。
色白の少年、太田灌二(かんじ)を見つめる。
「アレが…あの事件さえなけりゃ、こんなことには…」
市電が橋を渡り切ると、高雄図書館の電停が間近に見える。電停の直前にある踏切は既に遮断機がおり、警報が鳴っていた。
その時…。
線路と平行して走る大通りから忽然と現れた黒い影が、跳躍した。遮断機を軽々と飛び越え、踏切の真ん中に降り立つ。
「何だ?」
灌二と大輔が、同時に立ち上がる。
黒い影は、人間である。黒い野球帽を被りサングラスをかけ、黒いマスクを付けている。顔は全くわからない。黒いブレザーの制服を着ている。黒ずくめの姿だ。
黒ずくめは、市電の進路を塞ぐかのように、線路の上に屹立した。
自殺志願者なのか、精神異常者なのか。とにかく、非常事態である。
パアアーン。
市電から大音量のクラクションが鳴った。
クラクションをものともせず、黒ずくめは左右の腕を天に向けて突き出した。右手に、棒のようなもの。左手には小さな球状の物体を持している。
灌二は、素早くポケットからスマホを取り出した。
影に向け、スマホを構える。
「何か街中で気になるものを見たら、継続して観察し記録せよ」
彼が所属する野外観察部の顧問、社会科科教師井中カオルの口癖を思い出したからである。
急ブレーキがかかる。
ラッシュではないが、車内の座席は埋まり、ちらほらと立っている乗客がいる。急速に進行スピードが落ちると、立っていた乗客はいずれも体勢を崩し、車内で悲鳴が飛んだ。
黒ずくめは左手に持っていた物体を高々と上げた。
野球ボール。軟球である。
黒ずくめは右手で持っていた棒状のものを両手で持ち直した。金属バットである。
落下して来るボールを、バットが捉える。ジャストミート。ぐしゃっというボールが潰れるような打音が響いた。
空気を裂くように、ボールが飛んだ。市電のフロントガラスへ向かって行く。
再び、大音量のクラクションが鳴った。
「キャアっ」
「わあ」
乗客の女子高生達が悲鳴を上げる。
「こっちに来るぞ」
大輔は立ち上がった。
足元に置いてあったバッグを捧げ持つ。
飛んでくるボールを防ごうと試みたのだ。
その刹那である。
線路脇から何かが蠢き、黒いものがフロントガラスの真ん前を横切った。急ブレーキでようやく停まりかけている市電の直前に飛来したそれは、黒ずくめの打ったボールを見事にキャッチ。反対側の線路の上に落下した。
黒い物体はグローブ。その掌の部分に、ボールがすっぽりと収まっていた。
「こりぁ凄い!」
灌二は短く叫ぶと、撮影を止めた。
車両はちょうど電停高雄図書館に辿り着き、ドアが開く。
グローブを投げ、危機を救ったのは誰なのか…。
乗客達の視線は、一斉に線路脇に集まった。
その人物は線路脇の柵を乗り越え、グローブとボールを拾い、パタパタとグローブを叩いた。
純白のユニフォーム。黒いアンダーシャツ。トラッド系のユニフォームの左胸に一文字、
「鬼」
と刺繍されている。
近所にある鬼が浦中学の野球部員と見て取れる。
急停車した市電の、運転席脇の窓が開いた。
中年の運転士が制帽に手をやり、野球部員に声をかけた。額に冷や汗を滲ませている。
「君、オニチューの生徒さんだよね。ありがとう。危ないところ、本当にに助かったよ」
オニチュー=鬼中とは、鬼が浦中学の、地元での呼び方である。
言いながら運転士の視線は、前方へ向かっていた。
線路の前方にあった黒ずくめの影は、既にいずこかへ消え去っている。
「中学生か高校生みたいだったが、どこの異常者なんだか…。捕まえて警察に突き出さにゃならんとこだが。まずは、大きな事故にならずによかった」
「奴は、異常者じゃありません」
語りかける運転士のほうを見向きもせずに、野球部員は独り言のように呟いた。
「市電に乗っていた誰かを狙っていました。奴の打ち方を見れば、わかります」
それだけ言い残すと、背を向け、立ち去ろうとする。その背中には「1」の背番号が、春のうららかな日の光を浴びて輝いていた。
「ちょっと、君」
運転士が慌てて、後ろから声をかける。
「学校にもお礼の連絡をしたい。君、お名前は?」
白いユニフォームの男は振り向き、帽子を取った。
髪が長い。
中学野球の部員にしては珍しい長髪を、さっと掻き上げる。
「たまたまランニング中、危ないと見てグローブを投げただけのこと。グローブにボールが収まったのは、まぐれです。褒められるようなことじゃあ、ありません」
男は踵を返すと、グローブとボールを抱えたまま、線路脇の柵を乗り越え、走り去った。
「カッコイイ…」
「イケてる」
「なんてひとかしら」
車内に立っていた女子高生達が顔を見合わせながら、口々に呟く。
遠ざかってゆく背番号1を見つめながら、車内のざわめきが続いた。
「誰かを狙ってたって、本当かなあ」
水色のワイシャツにネクタイを締めた女子高生が、同じ制服を着た仲間達に問いかけた。
「さあ…?」
仲間のうちの一人が、首を傾げる。
「狙ってたんじゃないの」
眼鏡をかけた別の子が、叫ぶように言った。
「ネットで話題になってるんだよ。最近、このあたりで黒ずくめの男がウロウロしてて、通りがかりのひとに打球をぶつけるって」
「エーッ。ホントー?」
最初に問いを発した子が、眼を見開く。
「じゃあ、今のがその黒ずくめなんだ。やっだあ」
「ウワサじゃなくって、ホントにいたんだ」
「多分ね」
眼鏡の子が答える。
「気になるのは…」
眼鏡の子は、仲間達の顔を見回しながら、右手の人差し指を立てた。
「ちょっと前に、高雄中学に転校予定の中学生が、行方不明になったでしょ」
別の子が頷く。
「うんうん、知ってる。ネットで読んだ」
「書置きとかもなく、突然いなくなってそれっきりだって…。家出かなあ? それとも何かの事故?」
「それがね、違うのよ」
眼鏡の子が手を振った。
「ネットのウワサじゃあ、黒ずくめに殺されたんじゃないかっていわれてんのよ。ばれないよう、遺体を始末されて」
「ウソお」
「こわ。一人で街なか、歩けないね」
(ふんふん)
女子高生達の会話は、灌二の耳に入っている。
(そんな噂があるのか。ほっとけないな…)
ガタン。
女子高生達の話を遮るかのように、車体が揺れた。
市電が再び動き出したのである。
女子高生達の噂話とは無関係に、立ち尽くしている男がいた。
「ウソだろ」
バッグを捧げ持ちながら、大輔は呟いた。
「まさか…あいつ。妹尾(せのお)?」
ぶるるるる…。
その時、大輔のポケットで、スマホが震えた。
「メールか」
大輔は呟くと、バッグを足元に置き、ポケットからスマホを取り出した。
メールの送り主は、「黒ずくめ」とある。
大輔は舌打ちした。
「また、このメールかよ」
松浦大輔へ。
少しばかり速い球を投げられるからって、いい気になるなよ。
貴様の最高の速球を完膚なきまでに打ち砕いて、プライドを粉々にしてやる。
逃げんじゃねーよ。
オニチュー三年 黒ずくめより。
「ケっ」
大輔はメールを削除すると、
「バカヤロウが」
と、呟いた。
この一週間、大輔は毎日、「黒ずくめ」からのメールに悩まされてきた。
「黒ずくめ」が何者であるのか、大輔は知らない。見当すらつかない。
何故、大輔のメールアドレスを知っているのか。何の目的で、挑戦状じみたメールを送ってくるのか。謎だらけだ。
「ただのいたずらか? それとも、本当にオニチューに『黒ずくめ』って名乗る奴がいんのか?」
「黒ずくめっていえば、さっきボールを打ち込んできた人間も真っ黒だったよね」
座席に座ったままの灌二が、声をかける。
「まさか、アイツか?」
大輔はアスリートである。アスリートとしての本能から、もし本当に実力のあるバッターがオニチューにいるなら、対戦してみたい、という気持ちもある。
「なんにせよ、えれえ、気になるぜ」
「あの」
腕組みして考え込む大輔の後ろで、甘い声がした。
頼りなげなか細い声で、大輔ははじめ、声をかけられたのが自分だと気付かなかった。
「あのう」
二度、声をかけられ、大輔はようやく振り向いた。
後ろに立っていたのは、中学生と見える少女だった。
「ありがとうございました」
少女は立ったまま両手をスカートの前に置き、大輔の前で頭を下げた。
「はあ?」
「さっきボールが飛んで来た時、ボールは私のほうへ向かって来てました。私の前に立ち塞がって、守ってくださったんですよね。本当に、ありがとうございました」
「えっ」
大輔の認識では、ボールは自分のほうに飛んで来ており、大輔は自分の身を守るためにバッグを捧げ持ったに過ぎない。
「いえ、どうも」
頭を掻き掻き、大輔は一礼を返した。
大輔が視線を上げると、少女と眼が合った。
少女は、大輔の眼を覗き込むように、上目遣いで見つめている。
少女の顔を間近に見、大輔は眼を見開き、小声で呟いた。
「カワイイ…」
やや切れ長の、潤んだ眼。
長い睫。
優しさと憂いをどこかに湛えた細い眉。
すっきりと伸びた鼻筋の下に、形のよい唇。
ショートカットの髪が、日の光をあびてキラキラと輝いている。
清楚な印象だった。
背は、大輔の肩位しかない。
小柄なからだを純白のシャツで包み、薄桃色のカーディガンを羽織っている。
膝よりやや短いスカートからほの見える太ももは柔らかな丸みを帯び、脚のつま先に至る美しい脚線を描いている。
「市役所前、市役所前」
少女に見とれる大輔の耳を引き裂くように、車内アナウンスが響いた。
この電停で降りる乗客達の列が車外に消え、チンチンと発車のベルが鳴る。
少女は、
「すみません、降ります」
と叫び、降り口へ向かった。
一度閉まりかけていた出口の扉が、再び開いた。
駆け降りる少女が手にしていた花柄の紙袋から、四角いものがこぼれ落ちる。
気づいた大輔が拾い上げ、
「ちょっと」
と声をかけたとき都電の扉は閉まり、少女の後ろ姿は既に小さくなっていた。
「財布かぁ…」
大輔は、少女の落し物をまじまじと眺めた。
縦のストライプが入った水色のガマ口である。
「落とし物ですね。運転手さんにお預けしたら」
背後から、灌二が声をかける。
「いや、ちょっと待て」
大輔が右掌を広げた。
「一応開けてみようぜ。何か連絡先がわかるもんがあるかもしれねぇ」
大輔は、ガマ口を開いた。
お金は、硬貨が数枚程度。さほどの金額ではない。
紙幣はなく、その代わりに一枚のメモ用紙が出てきた。
「四月三日午後二時 市営グラウンド バックネット裏の入口」
とメモされている。先刻の少女の文字であろう。やや右肩上がり。走り書きである。
「野球、観に行くのか。うちとオニチューの試合だな」
「オニチューの生徒さんかな? いや、それだったら一塁側オニチュー応援席で観るよね」
大輔と灌二が顔を見合わせる。
「まあ、何でもいいよ。さっさと運転手さんに預けちゃえば?」
「いや、待て。待て待て」
灌二の前に、大輔は再度手を広げた。
「今の子、市営グラウンドで野球を観戦する予定なワケだろ。それなら、グラウンドの入口までやって来るに違いねえ。俺はちょうどそこへ行くとこだし、やって来た彼女に、財布を渡してやればよくねえか」
「まあ、親切っていえば親切だけどね」
「今の子、何か気になるんだよ」
「気になる?」
大輔は頬を赤らめた。
「俺の顔、じっと見つめてさ…。ちょっとドキドキしちまった」
「はは。一目惚れってこと?」
「そんなんじゃねえよ。ただ何となく気になんだよ」
大輔はポンと掌を打った。
「お前、ヒマだろ。俺と一緒に来いよ。二対一なら、恥ずかしくねえ」
「何考えてんの。チームの皆さんが試合してる時に、そんなこと」
「いいんだよ。どうせ俺は試合にゃ出られねえんだ」
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