第一夜 ラビリントスと蜘蛛の女主人

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迷宮のような大理石の廊下をひたすら歩き続けて、もうかなり経った。婦人はなるべく遠くへ香澄を連れて避難させようとしているらしいが、香澄は恐らく婦人でもこの夢の探索が困難であることは感じていた。何度も夢でここを訪れているはずの香澄でも、この迷宮の地形は把握できないものだった。何故なら、夢で見る度この迷宮は地形を変えるからだ。昨日は通れたはずの場所が今日は行き止まりになっている、前は左曲がりだったはずの角が今度は右曲がりになっているなど、地図を残すにしても全く意味をなさないのだ。 「かなり入り組んだ形の夢ですね…。やはり一目見て思いましたが、何か迷いか隠したいもの、複雑な感情でもあるのでしょうね、あなたには。」 「…」 「迷わないように印を忘れずつけなくては。あなたもくれぐれもはぐれないようにしなさい。あなたは夢を自在にできる夢の権限者になりやすいですが、アレは今のあなたでは思い通りにはならないものです。余所から来た化け物であるとしっかり意識しなさい。」 「わ、わかりました。」 夢はその人間の記憶や感情を反映するものであるのは香澄も知識で知っていたが、婦人に改めてそれを指摘されるのは何だか気恥ずかしかった。心が裸にされているようだ。それでも、婦人は自分を助けてくれているのだと香澄は気を取り直して前を見据えた。 それにしても、婦人が先程から言っている夢の権限者がどうのという話は、明晰夢のことだろうか。確かに自分はこの悪夢を含めてそういった夢を見やすいが、別に特別なものでもないはずだが…。それに印とはどこだろう。何も見当たらないが。 香澄がそう考えていると、婦人が途中で静かに立ち止まった。そして、先程から壁につけていた片手を離すと、香澄の手を握ったままもう片方の手を己の手前に持っていき、何かを香澄の手の中指に巻き付けた。…細く白い糸だ。糸を視線で追ってよく見ると、大理石の白と溶け込んでいるが、壁と繋がっている。先程まで婦人が触れていた壁だ。 「…この糸は?」 「私のしおり糸です。ここに来るまでに壁にもつけておきました。これがあれば、もしあなたに何かあったときに、すぐに駆けつけられるので。」 「へえ…」 印というのは、婦人の糸のことだったようだ。ということは、多分婦人が宙から現れた時もこの糸を使っていたのかもしれない。この透き通るような白さと細さで初めは気づかなかったけれど。掌の中指の糸をまじまじと見ながら、香澄は糸を親指の爪で擦ってみる。滑らかで柔らかいようで、簡単には切れない糸のようだ。確か、しおり糸というのは簡単に言えば蜘蛛の命綱でありセンサーだ。宙を登り降りしたり、来た道を覚えておく印にしたり、敵や獲物の振動を感知するため張り巡らせたり、様々な用途がある。婦人が香澄にこの糸を巻いておく理由は、守るべき夢の主である香澄を危険から遠ざけるため以外の他ないだろう。それを何となく理解している香澄は、糸を守るように掌をぎゅっと握った。 「さて、あなたはここで待機なさい。比較的安全でしょうから。」 「わかりました。ありがとうございます。」 「では私は急ぎます。あなたの精気で想定外に肥え太っていましたからね、アレ。迅速に片付けなければ大変なことに」 婦人が言葉を言い終える前に、突如として彼女の右側真横の壁が轟音とともに派手に砕け散った。瓦解し霧散する大理石が、白い破片や粉になって雨や霧のように辺りに降り注ぐ。寸でのところで婦人に突き飛ばされ、香澄は少し離れたところで尻餅を着いた。腰を打ち付けてしまったものの、怪我は免れたようだ。腰の痛みに顔をしかめながらも、香澄は飛び散る大理石の欠片や粉の白い煙の中、婦人の姿を探した。自分を庇った彼女は、きっと直撃だったはずだ。婦人の無事を祈りながら、香澄は必死に目を凝らした。すると、煙が段々晴れてきた。そして、壁の向こうから現れ、先の方に威嚇するように鼻息を吐き出し、肩を怒らせ婦人に迫る牛男の怪物と、大理石の破片や粉でドレスを白く染め、屈んだ体制で怪物を睨み付けるように顔を向けた婦人が対峙している様子が確認できた。香澄はそれを見るなり、酷く狼狽した。 「クッ、まさか夢を破壊してまで来るとは…もうお前は十分肥満でしょうに!そうまでしてあの子を…!」 「だ、大丈夫ですか!?」 「あなたはそこを動いてはなりません!アレの狙いはあなたです!これ以上精気を奪われれば命はないと思いなさい!」 「でも!」 思わず駆け寄りそうになった香澄を、婦人は大声で牽制する。無理もない、香澄を守るために遠ざけたのに近づかれて何かあっては本末転倒だ。けれど、香澄は香澄で自分に対し親切に接してくれている婦人が目の前で大変な目にあっている事実に落ち着けという方が厳しかった。 だが、そんな二人が落ち着く間もなく怪物は見た目通りの猛牛の如く向かって来た。無論、狙いは香澄である。それをわかっている婦人は、そうはさせまいと素早く袖から糸を取り出すと束にし怪物の足へと引っかけた。そして、一気に引くと両足の均衡を失った怪物は初め婦人にやられたときのように、今度は派手に横向きに転倒した。角で抉られた大理石の壁が、ガリガリと音を立て破片を散らす。…が、怪物もまた再度邪魔をされたことに本気で憤慨したのか、負けじと起き上がり、おぞましい雄叫びを上げながら自身の足に括られた糸を自分の方へと力任せに引っ張り振り回した。すると、今度は婦人が糸に引かれ宙を飛び、大理石の床へ叩きつけられる。めり込む勢いであった衝撃に再び息を呑む香澄を、片手で大丈夫だと制しながら婦人は立ち上がった。 「……ぐっ、生意気な…お行儀というものを教えねばなりませんね。」 ドレスを汚した粉や破片を払いながら、婦人は悪態を吐く。そんな彼女の醜態を嘲り笑うかのように怪物は鼻を鳴らすと、斧を持ち直し婦人に向かって薙いだ。だが、婦人は糸を素早く上に向かって放つと、そのまま飛び上がった。そして、糸にぶら下がり後方へ大きく揺れると、壁を蹴り勢いよく怪物へ体当たりした。打撃を食らった怪物は、衝撃に怯みながらもいまだ婦人を睨み付ける。一方婦人は、清々しい様子で糸を一度切り、優雅に着地した。そんな婦人の様子に苛つくように唸ると、怪物は今度は岩のような拳を彼女に振り下ろさんとした。しかし、婦人はそれを素早く後方に跳んでかわすと、再び糸束をつくった。そして、先端に大きな輪ができるように結ぶと、それを振り回して投げる。糸束の先端の輪が、怪物の首に掛かるとキュッとそのまま結ばれた。締まる首に怪物は焦ったのか、斧を手放し糸を外そうと躍起になる。だが、全く糸はびくともしない。そんな怪物が糸に躍起になり屈んだ隙に、婦人は今だと怪物の背に飛び乗った。そして、複数ある脚の爪で引っ掻きつつ、どんどん糸を締め上げる。苦痛で婦人を振り落とし糸を解こうと、怪物は壁に婦人を打ち付けようとしたり、体を振り回したり、殴ろうと腕を振り回したりして暴れまわった。だが、どれほど打ち付けられても婦人は断固として退こうとせず、脚で必死にしがみつき、糸を締め上げる手を緩めない。まるで、西部劇に登場する、暴れ牛を投げ縄で牽制し、乗りこなそうとしがみつくカウボーイのようだ。気品溢れる婦人にも、こんなアグレッシブな面が存在したのだ。一連の様子に、香澄は茫然と尻餅を着いたまま見ているしかない。ただ、ひたすら圧巻されていた。だが、それは怪物が再び斧を手に取ったことで終わりを告げた。 「危ない!」 怪物ががむしゃらに斧を振り回すと、香澄が叫ぶと同時に婦人が握っていた糸束が切断された。そして、糸を引いていた勢いで婦人が怪物の背から振り落とされる。その機会を逃すまいと、怪物は婦人に斧を振った。婦人は為す術なく、その凶刃に斬り上げられる。そして、力なく壁へと叩きつけられそのまま動かなくなった。あまりのショックに、身が凍るような感覚が香澄に走る。 「あ…嘘……嫌……」 絶望と悲愴に打ちひしがれる香澄に、更に追い討ちをかけるかのように滅びの影が振り返った。黒々とした巨体に気づくなり、香澄は身を震え上がらせる。邪魔者を片付けた怪物が狙うのは、もう獲物である自分一人しかいないのだと、嫌でも理解せざるを得ない。ああ、何故両親といい自分は自分を気にかけてくれる大人に迷惑をかけてばかりなのだろう。感謝しても、恩に報いるようなことが何もできずに終わってしまうのだろう。自分がこれから死ぬよりも、情けない話だと香澄は思った。だが、そんな憐れな香澄に怪物は何の慈悲もなくその手に斧を構え直す。 …が、その時だった。不意に怪物の背後から、無数の白い糸が降りかかった。糸が怪物の手足、首に巻き付き動きを封じる。両手両足を縛られたことで、もつれ込みながら怪物は再び地に伏した。あれほど、猟奇的な存在感を放っていた斧も、あっさり手から離れてしまった。そして、マリオネットのように糸に引かれ、斧は怪物の背後にいた者へと手繰り寄せられた。 「お前の相手は私です、忌々しい肉塊よ。誰からも祝福を受けられなかった憐れなあなた方でも、"大いなる神秘"に迎えられるようせめて私が弔って差し上げます。」 「!」 そう言った"彼女"の後頭部から現れた、何か鋭い爪のようなものが怪物の顔面を切り裂いた。そして、割れた柘榴のようになっているかもわからぬまま、怪物の顔も糸で覆われた。最期に、緊縛された罪人の頚を刎ねるギロチンの如く、巨大な刃が怪物の頭上に振り上げられる。…香澄は次の瞬間が訪れる前に、ギュッと目を瞑り耳を塞いだ。 「き、消えた…?」 数分経っただろうか。香澄が漸く目を開くと、怪物の姿は跡形もなく消えていた。やはり所詮は夢だからなのだろうか。それとも、もう既に婦人が食事として片付けてしまったのだろうか。どちらにせよ、先程までの食うか食われるかの戦いの痕跡は、破壊された大理石の壁くらいしか残されていなかった。 「やれやれ、てっきりもう精気をほぼ奪われ夢魔に抵抗できるほどの権限が残されていないと思っていましたが…私の誤算でしたね。まあ、ありがたいことに変わりありませんが。」 横から、もうすっかり馴染みの声が聞こえてくる。香澄が心の底から安心する声だ。 「あ…よかった!無事で!」 「それはお互い様ですよ。あなたもよくここまで頑張りましたね。先程のこともお礼を言わせていただきます。」 「えっ、私は何も…」 無事だった婦人に駆け寄るなり、身に覚えのない感謝を告げられ、香澄は首を傾げた。自分は彼女に守ってもらってはいたが、彼女の助けになるようなことをした記憶はない。 「いえいえ、先程考えたのではありませんか?私に傷ついてほしくない、無事でいてほしいと。」 「は、はい。勿論です。」 「その夢の主たるあなたの思いが、権限を働かせ深傷を負った私を守ったのですよ。私のドレスは頑丈ですが、あなたがいなければ今回は危なかったでしょう。現に一時的に気を失っていたことは事実ですからね。だから、心から感謝していますよ。ありがとうございました。」 なるほど、確かにあれだけ混戦して斧で切られていたにもかかわらず、婦人には傷一つない。更に驚くことに、小紫のドレスは、破れはおろか白く汚れていたはずであるのに、何事もなかったかのように綺麗な光沢を放っている。婦人を攻撃から守ったのか、それとも傷を癒したのか、それは香澄自身でもわからないが、とにかく彼女が無事であるなら今はどうでもよかった。 「私の方こそ、ありがとうございました!えっと…」 香澄は、感謝を上手く告げようとして言葉に詰まった。そう言えば、婦人をどう呼んだらよいかわからないし、自分も自己紹介がまだだった。いくらなんでも、ずっとお互いあなたと呼ぶのも限界があるし、違和感も尽きない。 「えっと…すみません、今更ですが私は香澄といいます!あなたの名前は?」 「…生憎、名乗るような名は私には存在しません。」 「えっ、そうなの?」 「ええ、ですので好きにお呼びなさい。」 なんと婦人には名前がないようだ。…いや、厳密には名乗れないだけかもしれないが。何にせよ、名前はわからないため香澄が勝手に呼んで構わないらしい。 「わ、わかりました。えっと、じゃあ…」 香澄は婦人を何と呼ぼうか考える。店員さんか店長さんかはわからないため却下、婦人というのも誰でも当てはまるしそのまま過ぎてちょっと…なるべく彼女らしく、それでいてその呼び名ですぐに彼女だとわかるものがあれば…。考えに考え、香澄は漸く口を開いた。 「アリアドネ…って呼んでもいいですか?」 糸で猛牛の悪夢をさ迷っていた自分を救ったヒロイン…自分にとって彼女だとわかりやすく、尚且つ強い意味のある呼び名を考えた結果、香澄は婦人をこう呼ぶことにした。 「……確かに、あなたの第一印象ではそういう比喩になるでしょうね。私は常に及び腰である一介の少女に過ぎないあなたを英雄テセウスだとは思えませんが。"ミノタウロス"を主に退治したのも私ですしね。」 「す、すみません!だったら別の」 「ですが、夢蜘蛛さんとか、マスターよりは個性的ではありますね。いいでしょう、そう呼ぶことを許可します。」 「あ、ありがとうございます?」 相変わらずではあれど、色々と歯に衣着せぬ物言いで婦人は感想を返した。だが、どうやらその呼び名を受け入れてくれたようだ。安直すぎたか、それとも考えなしだったか、そう気にし始めていた香澄もとりあえずは安堵した。 それにしても、婦人…アリアドネは今までに様々な呼び名をもらっているようだ。普段名無しとしていて、相手に好きに呼ぶように投げているのであれば当然とは言えるだろう。個性的ということは、自分が考えた呼び名は今までに誰にも呼ばれたことがなかったのだろうか。これまでアリアドネは、どれだけの人に会っていたのだろう。もらった呼び名のうちで、多かったものは何だろう。どんな暮らしをして、どんな生涯を送ってきたのだろう。気になることがたくさんあるが、香澄はそれを尋ねることは遠慮した。何故なら、アリアドネは会って間もない自分にそこまで話してくれるような性格ではないと考えたからだ。 「…あれ、何か霞んでる?」 「…そろそろ目覚めのようですね。夜も明けましたし、潮時でしょう。」 「あ、そうなんだ。」 まっさらな大理石が更に白み始め、どこか白い霧の中にいるように二人の姿も霞み始めた。アリアドネ曰く、朝が近づいているため、もうすぐ自分は目覚めるらしい。波風のない水面のように穏やかな気持ちになりながら、香澄は辺りを静かに見回した。確かにこれは朝靄にも見えるかもしれない。 「では、目が覚めましたら後日またお会いしましょう。お店で色々とお話しなければならないことがあります。」 「あっ、そうだ。お金を払わないといけないんでしたよね。」 「お金もそうですし、他もです。」 「えっ、具体的にどんな?」 「それはお店で詳細をお話しします。さ、私はこれで。あなたが目覚めてしまうと帰れなくなりますので。」 「わ、わかりました。ありがとうございました。」 「ええ、ごきげんよう。」 アリアドネの話は気になったが、自分が起きてしまうと帰れなくなるならばと香澄は素直に引き下がった。けれど、アリアドネとまた会えることがわかっただけでもとても嬉しくなった。彼女とはもっと話したかったし、感謝が尽きないからだ。昔までは朝も夜も苦手だったが、今日からは安心して眠ったり目覚めたりできそうだ。香澄は、自分に手を振るアリアドネに手を振り返した。辺りの白が段々濃くなっていく。そして、やがて眩いほどの白に周囲が染まると、暖かな光とともに香澄の意識は宙に浮いた。 *** 鳥のさえずりが微かに聴こえてくる。日向の香りに鼻を擽られ、ゆっくり目を開くと柔らかな旭光が優しく入ってきた。頭の霞が晴れてくると、陽光に照らされた自室の天井が見えた。以前の目覚めのような息苦しさはなく、寧ろ窓も開けていないのに空気が爽やかに感じる。体も軽く、難なく起き上がることができた。目覚まし時計を確認すると、本来起床する時間の5分前だ。香澄は、少し考えた後目覚ましのアラームをオフにしてベッドから出た。 昨晩は随分長い夢を見た。あまりに色々とあったため、昨日の出来事も含めて全てただの夢だったような気さえしてくる。だが、ベッドの側の窓を見上げると、そんな香澄の考えを否定し、確かな現実を教えるものが目に入った。 「…凄い夢だったな。」 蜘蛛の貴婦人、アリアドネがくれた悪夢を祓うお守り。その向こうのカーテンを開くと、朝の光に包まれたターコイズ色の空が広がっていた。今日も天気はいいみたいだ。蜘蛛の巣の網の中で、晴天のように青い石が輝いていた。 Continued to 2nd night...
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