第一夜 ラビリントスと蜘蛛の女主人

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第一夜 ラビリントスと蜘蛛の女主人

睡眠中あたかも現実の経験であるかのように感じる、一連の観念や心像、幻覚の総称を人は夢と呼ぶ。 古代は神の予言、肉体から一時的に抜け出た魂が見た現実、潜在意識から引き出された別の自我などと言われてきたが、現代では単なる脳の記憶処理の断片でしかないと言われている。 夢が様々な情景や物体をつぎはぎに繋いだようにデタラメであることが多いのは、大概目覚めたときには泡沫のように記憶から消えてしまうのは、そのためであるという。 けれど、現在でも夢を正確に定義しようとすることは困難であるようだ。 ともあれ、安らかな眠りの目安であり、要であることに変わりはない。 そして睡眠は、食事に次いで生命活動には重要なものである。 そのため、夢というのは預言や象徴ではなくとも侮れないものなのかもしれない。 だからこそ…悪夢を恐れる人はいまだ尽きないのかもしれない。 *** 今日の授業も終わり、筆記用具やら飲みかけのジュースやらをリュックに押し込んでいく。今の学校は嫌いではないけれど、ずっといたい空間でもない。立つ鳥跡を濁さずを実行し、持てるだけのものを背中に背負い、さあいざ帰り道へ。上履きでフローリングを鳴らしながら、無機質な教室のドアを横に引いた。そして、少女は目の前に広がる廊下に「ああ…またか」とため息を吐きたいような、あるいは息が詰まりそうなような、そんな何とも言えない感覚が肺を震わせた気がした。 不気味なほど白く、嫌なほど薄ら寒く、ほの暗いくせに不自然に照り返す大理石の壁と床。コンクリートやセラミックスが目立つ自分の学校には、絶対的にあり得ないその存在。少女はこの光景を目にしたのは、今回が別に初めてではない。寧ろ、ここ最近は嫌というほどこれは自分の前に現れた。それに、これに遭遇する頻度の間隔が日に日に短くなっている気がする。あるときは家に着いたら、あるときはカフェの戸を開けたら、そしてまたあるときは夜中トイレに行こうとしたら…何かしらのタイミングで必ずこれは現れる。薬を飲んでいるはずなのに…だ。そして、やはり振り返ると教室など初めから存在していなかったというように不気味に白い大理石が背後にも続いていた。頬をつねると、やはり痛覚は感じない。 わかっていても、少女は冷ややかな汗が首を伝っていくのを感じた。こうなるともう、"アイツ"が来るのは確定だからだ。少女は反射的にその場を駆け出した。逃げても無駄だと頭ではわかっているはずなのに、足は狂ったように止まらなかった。アイツが来る前に、できるだけ遠くに行かなければと、それしか考えられない。息が荒いのか、呼吸が止まってしまったのか、その感覚はもはやわからないが、心臓だけは間違いなく早鐘を打っている。だが…今回はあまりにも想定外過ぎた。 まっすぐに廊下を駆け出して初めの角を曲がった瞬間、少女はすぐに足を止めた。巨大な岩のようでも、壁のようでもある影…槍のような二本の反り返った角、分厚く硬い脈打つ筋肉、針のように硬くごわごわとした焦げ色の毛、そして拷問時に罪人を打つ鞭のようにしなる長い尾を持ったそれは、地獄の門が開くかのようにゆっくりとこちらへ振り向いた。胴は屈強な男のそれでありながら、猛牛の頭がこちらに理不尽なほど暴力的な視線を向ける。…ああ、そんな、今回はあまりにも早すぎる。目覚めて逃げることもまだ叶わなかった。いつもはこの迷宮のような大理石の波をいくつも掻き分けなければ追ってはこなかったのに…まだ心の準備も済んでいないのに…。 怯んで動けぬ間に、胸ぐらを掴み上げられた。息苦しさと浮遊感に恐怖が内で一気に膨れ上がる。威嚇するように荒々しい鼻息をアイツは吐いた。そして…殺気の籠った目で睨み付けた後、少女を振り上げ、頭蓋を叩き割らん勢いで冷たく固い壁へと叩きつ 「!!」 …叩きつけられる直前で、現実へと意識が放り出された。先程の地獄のような光景を振り払うかのように、目を見開く。まだ靄が晴れない視界で、目の前にあるのが天井であり、自分の体がベッドの羽毛布団の中に埋まっていることを確認すると少女は安堵の息を吐いた。あの暗い大理石の建築物の中で、牛人間に暴行を受ける体験はただの夢であったのだ。…それと同時に、また過去何度も見たものと同じ夢を見てしまったことに頭を抱えたくなった。熟睡して、夢を暫く見ないようになっていたというのに…。不快な汗と気だるい体を無視し、何とか己を奮い立たせ、身を起こして時計を確認する。…まだ深夜の2時、起床するにも睡眠時間が勿体なく感じてしかるべき時間だ。けれど、少女はもう再びベッドへ戻り眠りにつく気にはとてもなれなかった。今の状態で眠っても、あの牛人間に先程に続き暴力を振るわれるだけだとわかっているのだ。結局少女は、その後一睡もせず夜が明けるまで本の世界へ己を逃避させていた。 *** 「慢性的な睡眠不足だね。」 一見軽薄なようで、それでも不愉快さは感じない口調でそう告げられる。少女自身にも、己の体調不良の原因くらいはおおよそ検討はついていた。そのため、目の前の自身の主治医に選ばれた男の言葉を、対して動じる様子もなくただ淡々と聞き入れている。 「寝つきがよくない?それとも、夢見が悪い感じ?」 「…夢見が悪い……かもしれません…多分。」 「そっかあ…じゃあ、熟睡できる薬を処方しよっか。」 「…ありがとうございます。」 その対話を最後に挨拶をした後、診察室を後にした。 睡眠薬やら抗うつ剤やらの入ったビニル袋を指にぶら下げ、駅までの道をふらりふらりと歩く。心が暗い水底に沈んでいる少女の様子とは対照的に、暖かい陽気で空は雲一つない快晴だった。優雅な昼下がりを過ごすにはもってこいの日だろう。だが、少女にそんな昼は過ごせなかった。どんなに自身が暗くても、周囲は何気ない時が流れているのだという証明のように。普段でもただでさえ、後ろめたいというのに…だ。 今日は自身の様子を一目見た親が、学校へ欠席の連絡を入れた。以前から悪夢と睡眠不足には悩まされていたが、朝起きたと思ったら血色が悪く隈の酷い荒れた肌をした娘が寝室から現れ、一睡もしていないと知ったときの両親の顔を少女は今も忘れられない。当の本人たちからは、気にするな、大丈夫、ゆっくり休むといいと聞いた。けれど、少女はその言葉を素直に受けとることがもはや困難だった。苛めによる不登校、受験の失敗、午前だけしか通う必要のない学校、そして今度は心療内科通院…絵に描いたような親が苦労する子どもだと我ながら思う。現に、少女は両親が自身に隠れて資金や娘の将来を嘆いているのを深夜に聞いてしまったこともままあった。自分も苦しいが、大丈夫だと口では言いながら彼らも苦しんでいる…自分が彼らを我慢させてしまっているのだ。自分が治るまでは仕方がないという人もいるかもしれない。けれど、そのように開き直れないくらい少女にはこの事実がもう耐え難かった。もう、今すぐどこでもない場所へ消えてしまいたいくらいには。家族の、大切な人のお荷物や負担になってしまうくらいなら、いっそ…と考えたことも何度もあった。 「あっ、薬。」 周りが見えぬほど暗い感情に浸っていたため気がつくのに遅れてしまったが、手に持っていたビニル袋が忽然と消えていた。途中の道のどこかに落としたのは間違いない。少女は慌てて周囲を見回した。…ここにはないようだ。確認すると、少女は元来た道を急いで引き返した。
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