ホシビロイ

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ホシビロイ

生きるのが苦手だ。 全ては堂々と終わるのに、終わることを意識せずに生きているバカたちに混ざって、何事も永遠に続くかのように意味を探しながら生きることが苦手だ。 「生まれたことに意味が有る」人は呪文みたいにそう唱えながらパンをかじり、学校に行く。なんのために働き、なんのために生きなければいけないのか。何一つ答えが出ていないのに、そのまま生きることを選んでいる習性が、気持ち悪くて仕方がないのだ。 私はなぜ生きているのか。ぐるぐると頭を回転させながら、今日も微妙な丈のスカートを履き、靴下をくしゅ、と下ろすと靴を履く。朝はまだ楽だ。日は、また落ちることを予測させまいと涼やかに光っているから。 私を学校に行かせるため、母は色々なアイディアを出してくれた。私が「生まれたくなかった」とほざいた夜も、母は弁明の一言も口にせずにただこちらを見ていてくれた。感謝は、している。今日も学校に行く対価としてもらった100円玉を財布に入れて玄関を出た。100円で生きるのだ。私は、やはりどうかしている。 イヤホンからはあまり流行らないパンクロックのデスボイスが流れている。うるさい音量が私の視界を掻き消して、より無心に近づけてくれる。若者が車から離れた先は、イヤホンに通じているのではないか。無意味としか取れない思考をパンクロックの合間にめぐらせながら、通り道であるコンビニに寄ってグミを買う。店員の「こんな時間に中学生が何をしているんだ」というテレパシーを受け取りながら店を出る。強弱はあるものの、人は大体目で喋る。それを聞こえないようにするためのイヤホンは、売れるのが当たり前すぎて社会現象にもなれなかった日本の文化だ。ああ、無意味なことしか出てこない。 封を開けると甘い、甘い匂いが漂ってきた。みかんは好きだ。何も考えていないから。ハート型のグミたちの中から一粒つまんで口に入れる。パンクロックは少しだけ、味覚の邪魔もするらしい。 私の体は駅に着いた。ホームに上がり、いつもの場所で電車を待つ。風で揺れるスカートは、3年も履けば誰でも慣れる代物だ。電車があと2分で着く、と頭上から降ってくる声が、デスボイスに混じり聞こえてくる。白線の内側に下がっデストロオオオオイ。 グミをまた一つ袋から取り出す。ふ、とグミに違和感を感じる。形が違う。ハート形しか見たことがなかったグミが、少々パンクな形をしていた。星型だ。電車がホームに入ってこようとしていた。私は少しだけ、まだ生きてもいいかな、と思う。星も、多分何も考えていないだろう。 その時、背中に強い衝撃を感じた。気がつくと私は宙に浮かんでいた。 スタントマンは危険を背に映画に貢献する。消防士は、命を持って命を助ける。じゃあ、消防士になろう。 次の瞬間、視界は光で真っ白になった。 「…ましたか」 どこかで声がする。 「うん?」 またどこかで声がする。 聞き覚えのある声、そうだ、私の声だ。誰かの声を、聞き返しているのだ。 「死にましたか」 シニマシタカ?しにましたか?…死にましたか? 「へっ?」 拍子抜けした声。今度ははっきり、自分の意思で発した声だ。無理もない。生まれて初めての質問だ。 「死に…?」 「はい、死にましたか?」 目を開けると白くて可愛らしくふわふわとしたワンピース(この三月に袖無しだ)を着た、これまた可愛らしい女の子(5歳くらいか?)が頭の上の方に正座をしていた。誰かに似ている気がするが、思い出せない。 どうやら私は横になっているらしい。私は女の子を見るために今、かなり無理をして首を上に向けている。それによって女の子は逆さまに見える。だがそんなことはどうでもいい。まずは質問に答えるのが先だ。 そういえば、イヤホンがない。さっきまで頭をがんがんと打っていたデスボイスはいつの間にか消え、どこからか聞こえるのはエコーのかかったピコピコという電子音のような音であった。さっき誰かに押されたことで、イヤホンを落としたのか。そういえば誰だ、電車に向かって背中を押すなんて。 (死にましたか?) そこまで考えたところでさっきの言葉が頭をよぎった。あれ、私はさっきもしかして、ホームに落ちて、電車に、跳ねられたのでは? 「え………っと、はい、死にました。」 憶測で喋るのは嫌いだが、ぐるぐる回転する頭の中から自然と言葉が出ていた。えっと、ちょっとかなり、よくわからないが。 「そうですか」 女の子は表情を変えない笑顔でそう言うと姿勢を正し、オールを漕ぐのを再開したようだ。 オール?私は自分の周りを見回した。と言っても横になっているので、首だけで左右を確認することしかできない。 木だ。木の板が私の周りを取り囲んでいる。それは結構な狭さで、私はいわゆる直立した状態で横になっていた。(日本語がおかしいとは思うが、それが一番しっくりくるのだ。)その木の板は白く塗装がされていて、一言で言うと綺麗な作りだった。縦に少しだけ長いのか、余った部分の先頭に女の子が正座をして座っていた。 私は前、いや正しくは上を見上げた。この姿勢が一番楽……そこまで考えたところで、私の思考は視界に遮られた。 星空、だ。満天を彩る星たちが、今にも落ちてきそうな勢いで空に散らばっている。 いや…よく見ると、落ちている。 それらは目を凝らすと、確実に降下していることが見て取れた。スピードは違えど、みなゆっくり、のっそりと下へ下へ降りてきていた。 星……であっているのだろう。それはうまいこと、五角形の辺をそれぞれ引っ張ったような形(完全に星型だ)にちらちらと光っていた。あれ、星って星型だっけ。 私は緯度経度ともに一番自分に近いであろう星を目で追いながら、ゆっくりと身体を起こそうとした。 ああ…なるほど。私の身体は長いこと眠っていたような心地よい気だるさに包まれていた。幸い、全身が死ぬほど痛い、なんてことはなかった。よかった。変に納得してしまったが、これでなんとなくわかった。私は、死んだのかもしれない。 気だるさと身体をじんわりと切り離しながら身体を起こすと、私は止まってしまった。思考が視界に遮られたのはこれで二度目だ。ああ、そういえば背中を押される前、最後にこんな風に目の前の事で驚いたのはいつだろう。もうずっと前の、幼少期の頃だろうか。私は豆鉄砲をくらってもこんな顔はしないと思うほど目を丸くしていた。でも、思考はすぐにいつもの調子を取り戻す。 変に考える癖ができたのはいつからだろう。私のシナプスはきっと、私より働き過ぎたのだ。私が死んだ今もこのように働いている。可哀想だし、理解ができない。お前は何のために働いているんだ? 目の前には海、いや、海さながらの湖が広がっていた。よく見ると遠くの方に何かが見える。もやがかかっていて何かはわからないが、確かに何かがあるので規模はそこまで大きくないのだろう。あれ、私の視力は0.1もなかったはずだ。メガネは嫌いだからかけていない。あれ。 星は、寝ているときは気づかなかったが、満天の空の下、そこらじゅうに浮かんでいた。どれも暖色の光を放ちながらゆっくり降下している。ぐるりとあたりを見回すと、私と女の子のちょうど真上にひとつ、降りてくる星があった。触ってもいいのだろうか。なんとなく、あったかそうだ。 その星はやはりちらちらと光りながら降りてきていたが、もうすぐ手を伸ばせば触れそうなところまで近づくと、ゆるやかに方向を変えて私たちを避けるように降りてきた。 まるで透明なドームでもあるかのようになめらかに曲線を描くと、やがて私の目の高さまで来た。私はそろり、と手を差し出してみる。どうせ触れないのだろうが。 ふ、と音がしたように見えた。驚いたことに、もうすぐ手が届く、というところで星はやっと重力の存在を思い出したかのようにスピードを上げ、水面に吸い込まれた。 水が跳ねると思い、反射的に手を引っ込める。だが、跳ねなかった。吸い込まれる、という言葉通り、水面は星を吸い込むかのように着地点をへこませ、星を受け入れたのだ。 しゅう、という音が、今度は確実に聞こえた。星は水面に体を浸すと、きらきらとラメのような余韻を残して消えた。後には少しの気泡が、ぷく、と弾けてまた消えた。 私が顛末を見届けると同時に、床がぐらり、と揺れた。忘れていたが、これはボートか何かだろうか。 手を縁にかけ、すすす、と撫でてみる。外側は布か何かが貼ってあるらしい。すすす、とそのまま真ん中の方まで手を動かした。あ、少し、凹凸がある。私は縁の外側を除くために少しだけ身を乗り出してみた。あれ、この湖以外と浅いな。浸かったら膝が隠れるくらいか。私は指で凹凸を確かめながら縁を見た。 『桜木希』 あ、と思った。 そうだ、これは私の名前だ。そして気付いた。これは初めて見るが、おそらく、棺桶だ。 ーーー死後の世界? 極めてありきたりな言葉が頭に浮かんだ。 私は多くの日本人がそうであるように無宗教だし、天国、幽霊、生まれ変わり、正直どれもピンと来たことがなかった。 すうっと息を吸った。ここの空気はまるで、雪が降った次の日の朝のような、澄んだ味がする。 なるほど。私は変に納得していた。死んだのだ、私は、きっと。 「あの」 色々思うことはあるが、とりあえずここにいるのは私と、一生懸命身長ほどあるオールを操るこの女の子だけだ。 「はい?」 女の子は手を止めてこちらに視線を向けた。私は少し考えて言葉を選んだ。 「つかぬ事をお聞きしますが…もしかして、私は死んで、ここは死後の世界ですか?」 『死にましたか?』が許されるなら、この質問も許されるだろう。 もし本当にそうだとしたら、私は恐ろしく察しのいい物語の主人公だ。おそらく、この物語はつまらないに違いない。それに、違っていたとしても私は電車にはねられたのだ。少しくらい突拍子がなくなっても叱る人はいない。 女の子は少し、眉をしかめた。 あれ?不快にさせただろうか。私の読みは、的外れだったか。 「えっと、自分が死んだかどうかは、自分が一番わかるのでは?」 女の子は少し考えてからそう言った。 「あ…すみません」 私は、今までそうするのが自然だったように、とりあえず謝った。そして考える。もしかして、自分が死んだかなんてたいしたことではないのかも。 「あなたはそうやって、生きてきたのですね。それでは、あなたにとって『たいしたこと』ってなんですか?」 女の子はそう言ってまたオールを漕ぎ始めた。視線は横、オールの先を見ている。 女の子が私の心を読んだことが『たいしたこと』ではないのは確かだった。そういう世界なのだろう。 たいしたことってなんだろう。 父親が母親を怒鳴ること。兄が私の欠点を伝えてくること。授業が始まる前に、家庭科のエプロンを忘れたことに気づくこと。そんなに仲良くない隣のクラスの子に、声高くお礼を言って借りること。 全部、たいしたことないのだ。そして私が死んだ後もそういう気持ちはたいしたことがないし、もう、死んだことすらたいしたことではない。では、たいしたことってなんだろう。 「ここは、簡単に言うと訓練所です。」 考えを遮るように、女の子が口を開く。 「あなたは、立派な星になるために、ここに来ました。あなたには、その訓練をしてもらいます。」 「…はあ。」 訓練所。星になる訓練。 彼女の言う通り、とても簡単な説明だ。でも、なにか、もやもやとする。私はもやもやの正体を突き止めるため、出てきた言葉を口にしてみることにした。 「私…は。死んだと思うのですが。死んだら、天国とか、無になるとか、えっと、とりあえず何かしら、解放されると思っていたのですが。」 質問にもなっていない言葉をつらつらと投げかけてみる。そうだ、私は喋るのが苦手で、あまり喋らないようにしていたのだ。でも、私は私の言いたいことがわかった。それを質問したいのだ。 「いいえ、人は少なからず、解放を求めて死にます。ですがそれは間違いで、人は、今度は星になるのです。」 薄々気づいていたが、この女の子も喋るのが苦手らしい。色々なところで言葉を切り、もどもどと言葉を紡ぐ様は、どこか、誰かに似ていた。 「それは、つまり、死んだら終わりじゃないんですか?」 「はい。よく人は、これを第二の人生と言いますね。」 そうなのか。私は拙い言葉の掛け合いの中で、密かに絶望していた。 死んだら終わり、じゃない。 解放、救い、逃げ、終わり、そういうのをすべて、否定された気がした。なんてことだ、まだ続きがあるなんて。 「あなたは疲れています。長い旅になります。少しまた、眠ったらどうですか?」 女の子は、こっちの絶望に気づいていないような口ぶりで悪びれずにそう言うとまた横を向き、オールと棺桶の接点を調整するように少しだけずらしてまた漕ぎ始めた。 私は、短い人生の中で、割と絶望に気づいてきたと思う節がある。そして、絶望は繰り返すたびにじわじわと心に巣を広げていった。いつからか、絶望を感じるとそこから逃げるように眠気に襲われるようになった。 そして今も、大きな眠りの波が私を包もうとしていた。こうなったのは、いつからだろう。これは、逃げなのか。いや、私なりの、身を守る術だ。最大の逃げ場ががらがらと崩れ去った今、この波には心地よさしかない。 そんなことを考えながら、私はいつの間にか眠りについていた。 ぐがっこん。 大きな揺れと音を感じた直後、私を包んでいた心地いい波がさああと音を立てて一気に引いた。 目を開けて体を起こすと、目の前に十段もない白い小さな階段があった。女の子がその一番下の踊り場のようなところから片足を棺桶(ボートと言った方がいいのだろうか)にかけ、使い古したような太いロープで棺桶を繋いでいた。 「あ、おはようございます。」 「あ…おはようございます。」 女の子の挨拶につられて返すが、やはり私の後方には星空が広がっていて、どう見ても深夜のようだった。 「手伝いましょうか。」 「ありがとうございます。」 私は立ち上がって棺桶の上でバランスを取ると、ひょい、と踊り場に移った。なんだか体が軽い気がする。寝起きだからか。死起きだからか。 女の子はロープを私に渡すと、階段を弾むように登っていった。私はロープを棺桶のとってつけたような金具に結ぶと、結び方がわからないので固結びをした。まあ、あの小さい女の子がやるよりかはいいかしら。 女の子の後を追って階段を上ると、白い床の上を白い霧が立ち込めていて特に目新しいものは何も見えない空間だった。 ただ一つ感じられるのは、先ほどまでの澄んだ空気が一変して、なんだか、暖房をずっとつけていたような生ぬるいこもった空気ということだけだった。まだピコピコというエコーのかかった音は変わらず鳴っている。 「ここは」 私が説明を求めようと横を向くと、女の子の姿が見えなくなっていた。 あれ?見渡しても、霧で何も見えない。 「ここからは、自分の足で進んでください。」 女の子の声が、上から降ってきた。霧に混じって、少しだけ曇ったように聞こえる。 「自分の足で。」 「そう。進めばそこは行くべきところ。立派な星になれますように。」 女の子は最後だけ少し歌うように言った。デクレッシェンドのかかった声は霧のフィルターをだんだん増やしたようだった。 急に不安になる。一人だ。でも。 「いつも一人だ。」 気持ちが声になって口から出ていた。その声は、霧を伝って私の耳に入る。そうか、なにも怖がることはないな。 とりあえず進もうと二歩ほど踏み出したところで、それはすぐに阻害された。 壁だ。いつの間にか、目の前に壁がある。そっと腕を持ち上げ触ってみると、ひんやりと冷たい。どこかで見たことのある材質、そうだ、これは学校の廊下の壁だ。少しだけ横に撫でてみた。ぼこ、と出た部分がある。 ドアだ。これは、教室のドアだ。 近づくと自然に霧も薄くなり、すりガラスの部分に張り紙がしてあることに気づいた。 『ほんとうのこと庭園』 ほんとうのこと…? 私はなんとなく、黒いもやもやとした雲を連想した。ここまで異世界らしいところなのだ(実際、異世界なのだろうけど)、そんなもやもやが現実に現れないとは限らない。 辺りを見渡す。見える限りでは、このドア以外には目新しいものはなく、白い壁が霧の中に続いていた。 なんだか、怖いな……まあ、死んだし、いいか。 そんなことを考えながらドアを右に引いた。 ががらっと音を立て、ドアは私の手を離れて勝手に開いた。 「え、こわっ」 つい口に出したものの、その言葉はすぐに生暖かい風で流れていった。 そうだ、風が吹いている。そして。 目の前には、花、花、花。足元にはかろうじて半円を描くようにむき出しの土が見えるが、その先は私の腰のあたりまで伸びる一面の花畑だった。 よく見ると、幅30センチほどの道は、とりあえずだけど、ある。道を覆い隠すように咲く花たちは、テレビ画面で見るような一般的な花畑とは違い、様々な色形の花々がひしめき合うように咲いていた。 私は視界に広がるこの景色に、ほう、とため息をついていた。直後にまた、風がほうっと吹いた。それはまるで、空のため息のように、暖かく、花の香りを乗せた心地いい風だった。春なんだ、ここは。 ふと、後ろを振り返る。息を飲んだ。 一面の花。 ドアがない。 私はつい、ぐるりと回ってしまった。元の向きに戻る。かろうじて道が、進む方向を示してくれていた。 「なんだここは……」 独りごちるが、やはり先ほどのように優しい風が言葉をさらっていった。 進むしかないようだ。花々の背丈は腰ほどしかないが、どれだけ先を眺めても、どこまでも空と花畑しかないようだった。「長い旅になります。」なるほど。 私は足先で道を探すようにすり足気味になりながら、じわじわと進んだ。 赤、ピンク、きいろ、水色、紫。割合的にはパステルカラーが多いものの、たまに見えるビビットな色が、少し気分を暖かくした。 こんな経験はなかなかできないだろう。花畑。でもどこかで見た景色のような気もする。 ああ、そうだ。私は脳裏に霞んだ記憶を映し出してみた。兄と母、そして先頭には父が見える。旅行に行った時の記憶だ。そう、たしかどこかのフラワーパークだったか。今見える景色とは違い、花の種類は揃っていたが、私はその中で飛び回ってはしゃいでいた。 今は、おそらくその何倍もきれいである景色の中を、花を踏まないようにだけ気をつけながら淡々と進んでいる。たまにかわいいと感じる花もあるが、当然のように名前もわかるわけはなく、そのうえ、この花畑で全く同じ形の花を二度見ることはなかった。すべて違う種類なのか。 どっ! 考えは強制停止された。何かに、つまづいたのだ。視界がぐらりと傾く。次の瞬間には私は花の中に埋もれていた。 花を潰してしまった。そう思った私は急いで起き上がる。石。20センチほどはあるそこそこの石が道の真ん中に置いてあった。少しいらっとしたが、手を払いながら石の周りを見て驚く。 倒れたはずの花が一本もない。すべて凛と背を伸ばし、やはり、風に揺れていた。変な世界だ。 「大丈夫?」 下の方から不意に、声が聞こえた気がした。 「大丈夫?」 今度は遠くの方から違う声が聞こえる。 辺りを見渡す。当然、誰もいない。声はいずれも下から聞こえてきた。まさか。少しだけかがんで、一番近くに咲いていたコスモス(おそらく)に耳を近づける。 「大丈夫?」 驚いた。確かに、花から聞こえてくる。 気づいたらその声は、さわさわと小声でいたるところから聞こえてきていた。 「大丈夫?」「大丈夫かな?」「大丈夫?」 「大丈夫……です。」 ぴたっと音がしたようだった。大丈夫の大合唱は、私が答えたことで綺麗に止まった。あたりには、何もなかったようにまた風が吹き始めた。 変な…ところだ。 石を跨ぎ、また、さっき以上のすり足で進む。 『大丈夫?』 今度は驚かなかった。なぜなら、頭の中で響いたからだ。私が、思い出したのだ。母の声だった。 『大丈夫?無理しないでね。』 私はベッドの中で布団に潜り、聞こえないふりをする。 大丈夫なんかじゃない。大丈夫であれば、私は普通に生きているはずだ。こんな思いはしていない。無理をするな?生きていることに無理があるのだ。無理をしなかったら、私は死んでしまう。 は、と顔を上げた。視界に広がる花畑の先に、重たそうなドアがあった。 私は少しだけスピードを速めてドアに近寄る。春はいつもやさしく、私を責めるんだ。 『大丈夫?』 一刻も早く、ここから出たかった。 ドアは近づくにつれ、大きくなった。 深い赤い色をしており、両開きで、金色の縦に長い取っ手が付いている。 ドアの真上にに文字があった。 『ワードリウム』 言葉の……リウムってなんだっけ。 とりあえず、ここから出よう。私は両開きの右側のドアを両手で押した。 重い。そう感じたのは一瞬のことだった。 ドアの重みは押した瞬間に消えた。それだけではない。ふっと音がしたように、あたりの光が消えた。一瞬「ブレーカーが落ちた」と感じた。そんな消え方、暗さだ。いや、「暗さ」ではない、暗闇だ。あっという間にあたりは真っ暗闇に包まれた。 なんだここは。 そう思った瞬間に、頭上が光った気がした。 「な ん だ こ こ は 。」 見上げた暗闇に、白い光が映し出された。文字だ。句読点を入れて七つの文字が上から下、いわゆる縦書きに、ぽん、と現れた。音は、どこかで聞いたようなものだった。そうだ、飛行機でよく鳴る、アレだ。 文字が、と思ったところで思考が止まった。 「も じ が」 また、ぽん、と音がして三つの記号が現れる。さっき表示された「なんだここは。」が「な」から順にはじけて消えていった。 頭の中が、見える。「あたまのなかが、みえる」今度は横書きだ。「こんどはよこがきだ」なんだこれは。「なんだこれは」消える速度が追いつかないほど、文字は現れて、現れて、私の頭上はだんだんと明るくなっていった。 暗闇が光で埋まっていく。目をそらすと横から文字が素早く流れて目の前で止まる。「こ わ い」左上の方に小さくちらちらと光る。「こ こ に い た く な い」こんな時に先ほどの光景が浮かんでしまった。母の声。 「大 丈 夫 ?」 一瞬にして他の文字たちは消え、なぜか、それだけ大きなサイズで目の前に表示された。また変わらぬ、ぽん、という音。 嫌だ。頭の中が見えるなんて。私は私の考えに耐えられずに苦しく生きてきたんだ。それが、ここは。嫌だ、ここから出よう。考えが視界を埋める中、右も左ももわからないような暗闇を見渡した。ぐるぐる。文字たちが全体で回転を始めた。 気持ちが悪い。吐き気がする。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。 様々な字体の「嫌だ」という二文字が文字の隙間である暗闇を埋めていく。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。 ぱん。 何かが弾けるような音がした。 私はその音とともに、その場にへな、と崩れ落ちた。力が入らない。あたりには暑い夏に現れるデパートの冷房のような、慢性的な居心地の悪さが漂っていた。 頭上は光で満ちていた。暗闇の隙間もなくなったようだった。 「嫌だ!」 口に出していた。その瞬間のことだった。 文字たちはばらばらと音を立てて、上の方から崩れ落ちてきた。逃げる気力はない。私なんか、このまま埋もれたらいい。 文字は、私に積もることはなかった。 みんな残酷にも、私の真上で消えていった。ぱらぱらと、徐々に徐々に消えていく。最後の最後に遠くの方で、小さな「嫌だ」がバウンドして消えた。 私は動けないでいた。つらい。頭上に光は、もうない。視界を埋めていた文字が一つ残らず消えた今、私は首を曲げ、力のない目で斜め下を見ていた。 平常心を保とう、そう唱えていた時期もある。思えばその頃が一番平常心からかけ離れたところで暮らしていたのだ。「反抗期」と言えば聞こえがいいだろう。全員が経験する時期であれば、時が経てば過ぎ去るものだからだ。私の中にじりじりと巣を張った「反抗期」は、一年ほど前から広がるのをやめた。だが、それだけだった。心の中に少し緩めに貼られた巣は、一向に取れる気配がなく、風が吹けばゆらゆらと揺れた。 揺れるたびに、心の中身である言葉が引っかかる。言葉はそこで身動きが取れなくなって、じわじわと体力を奪われるのがいつものことだった。動けなくなった言葉を「反抗期」が食べ、食べカスを脳に送る。 「平気」 「大丈夫」 「たいしたことない」 きっと頭上では幾つかの言葉がまた光っているのだ。そうだ、いつも私は、こうやって暮らしてきた。そうしていつもへたり込んで、自分に言い聞かせてきたんだ。いつになれば、どこにいけば。 そう思ったとき、固定された視界の下の方に小さな光の点が現れた。 ちらちらと光るそれは、その場で止まっていたかと思うとじりじりと上に向かって移動していた。私はぼーっとその点の行方を見守った。どうやら、光が通った後には線のようなものが引かれているらしい。その動く点は、一メートルほど暗闇の中を上がったところで右に曲がった。ゆっくりゆっくりと右へ進むとまた今度は一メートルもいかないくらいで下へと曲がる。その点が床(であろうところ)まで来る頃には、大体の示しが付いていた。これは。 光の線が暗闇に底辺のない長方形を描いた後、点はいったん消えてからまた現れ、ご丁寧にノブを描いた。 ドアだ。 私はそう確信すると足を立て、床に手をついて起き上がった。なかなか力が入らないのは予想ができていたことだ。時間をかけて立ち上がり、その小さなドアに近寄った。どこでもいいから。 光のドアノブに手をかけようとしたところで止まる。ドアは自然とこちらに向かって開いていた。向こうからは朝日のような光が漏れ、思わず目を細め、瞬きをした。 あたりは光に包まれていた。実際、そこまで明るくはなかったが目が慣れるまでは何度も瞬きをしてやり過ごした。場所が変わったのだ。目が慣れてきたので念のため後ろを振り返る。暗闇も、ドアも、どこにもなかった。 しかし、足元に何かが書いてある。逆さまだ。読むのに支障はないが。 『考えの螺旋』 ベージュ色の地面に金のプレート、黒の明朝体。 考えの螺旋……DNAのことだろうか。そういえば、これまたベージュの壁が内側に丸いカーブを描いている。そのまま壁伝いに視線を動かし、前に向き直ったところで息を飲んだ。そしてそのまま視線を上げる。 螺旋階段だ。 試しにもう一度その場でくるりと回ってみる。出口らしきものも、階段以外のものすら何もなかった。 「嘘でしょ…」 目を凝らして一番上を見ようとする。だめだ。螺旋階段が続く先はどんどんと細く、霞んで、白っぽくとしか見えなかった。誰にも登れとは言われていない。しかしこれまでのことを考えると、何か行動をしないと状況が変わらないことは目に見えていた。 しょうがない。これまでのように、いきなり次のドアが現れないとも限らない。 非常に面倒で、無駄で、意味のない一歩。私は1段目の段差に足をかけた。 とろーん、と上の方から音楽が流れ始めた。ピアノの音だ。なんの曲だろう、知らない曲調だ。 二段、三段と足を進めていく。ゆっくり十段は登っただろうか。そこで、私は足に違和感を感じた。それは痛みでもなく、疲れでもない、なんというか、軽いのだ。足は体の重みをすべて支えているはずが、なぜか体全体が軽い。しっかりと段差を踏みしめている感じはあるものの、自重だけ半分以下になったような感じだった。 階段を踏みしめていくたびにそれは確信に変わっていった。疲れが、ないのだ。 これならいける。 そう思うと同時に、疑問が湧いてきた。 なんで登らないといけないのか。 なんで。 それは灰色をしたもやのような雰囲気をまとった気持ちだった。 私は、そういえば、いつもそんなことを考えていた。 何をするたびにも、何を感じるたびにも、なんで、どうして、という疑問が浮かんでいた。静かなピアノの音色が私の考えを後押しするように流れていた。 ふ、と気付くと上の方の壁に四角い三十センチ四方の穴が空いている。窓かしら。ペースを崩さずに近づくと、そこからふんわりと外の空気が感じられた。覗いてみる。 ぶわっと音がした気がした。そこは、まるで飛行機にでも乗ったかのような、上空の景色だった。 そんなに登った覚えはないが、結構な高さだ。よく見ると、スカイツリーのようなものも見える。東京だ。 私は特に不思議にも思わなかった。だが、とても、気持ちがざわざわと音を立てるのを感じていた。 ごちゃごちゃだ。そしてひとつひとつが、なんて、小さいんだ。 こんな世界で、生きていたんだ。 何度か飛行機に乗ったことはあり、見たことのある景色だった。でも。死んでからは、初めて見る景色だ。 気持ち悪い。私は窓から目を逸らした。 また、一段、一段と登っていく。ああ、本当に、本当に無駄だったんだ。あんなに小さなところで押しつぶされそうに生きてきた私は、なんでもどうしても無い。存在自体が無駄だったのだ。 私は考えている途中で、絶望を予感していた。 またきっと、体の力が抜けて、いっそのこと階段から落ちてしまえばいいと思っていた。 「でも」 ふと、二つの文字が頭に浮かんだ。ピアノは相変わらず慣れないビートを刻んでいた。 無意味だ。無駄だ。 でも、だからどうした? 誰かの狙い通りに手のひらで転がされること、自分の不甲斐なさを実感し、成長を誓うこと、全部全部無意味だ。こうしてすべて終わった今、それでもまだ前に進まなければいけないのも、無意味なんだ。 でも、無駄だから、無意味だから。 私は違和感を感じていた。こんな方向に考えたのは初めてのことだった。どうしたんだ。じわじわと心が持ち上がる気配があった。 考える必要が、ないのだ。 また窓が見えてきた。私は少しペースを速めて近づいた。 またぶわっと音がして、今度は枯葉が舞い上がった。学校の中庭だ。知らない子たちが枯葉をかけ合って遊んでいた。とても、楽しそうに、笑いながら。 次の窓は、夕暮れだった。リュックを背負った高校生が、道の真ん中で立ち止まっていた。目線を追うと、そこは一面のオレンジ色。窓の端から端までじわりと滲み出すような水彩画だった。美しい。私はそう感じた。 「もしかして」 ピアノの音は完全に私を後押ししていた。 ぐんぐんと階段を登っていく、走り出したい気持ちだった。こんな革命は初めてだ。そうか、もう、いいんだ。楽しかったり、美しかったり、悔しかったり、悲しかったり、怒ったり、面白かったり、それで、いいんだ。 ぐらっ。段差を上ろうとした足が、行き場をなくしたことでよろけてしまった。段差が、無い。 気付くとそこは真っ白な部屋だった。どこかで見覚えのある狭さ。そうだ、これは私の部屋の大きさだ。でも、ドアもなければ一切の凹凸がない。天井まで一点の曇りもないほど真っ白な空間だった。 ぽつ。部屋の真ん中には、四角い機械が置かれていた。 「DVDプレーヤー?」 よく見なくても、慣れ親しんだ形には見覚えがあった。フィクション映画は生前から好きだった。すべてが嘘と決まっているから。 プレーヤーの上には、ケースに入った一枚のDVDがあった。 『さくらぎ のぞみ』 表にはサインペンで書かれた文字。これも見覚えがある。母の字だ。 なんとなく、DVDをセットし、再生ボタンをしっかりと押した。 あたりがじゅううと暗くなる。ジジジと音を出しながら、少しの間ノイズを見ていた。目の前に文字が映し出される。 『あのとき映画館』 あたりは完全な暗闇だった。タイトルだけが、小さく前の壁に映し出されている。 がこっ。 何かが外れる音がした。その物理的な音に一瞬体を強張らせたが、目だけは何が起こっているのかを探すようにしっかりと動いていた。だんだんと暗闇に目が慣れていく。「あのとき映画館」というタイトルが、少しずつ離れていくような気がした。 そして気付く。私の周りを囲んでいた壁が、外側に向かってゆっくりと倒れているのだ。 何回か瞬きをしたが、それは本当に起こっていることだった。ここまで不思議な世界なんだ、壁が倒れることくらい、予想のできる範囲だと自分に言い聞かせる。四つの壁はまるで下辺に蝶番でもつけているかのように、ゆっくり、じわじわと倒れていった。 そしてそれと同時に、どこからともなくがやがやとした声が聞こえてきた。 ぼふん。 壁が倒れた向こうがじわじわと明るさを帯びていく。そしていつの間にか倒れた壁や、立ち尽くしている床の境界線がなくなっていき、私は緑色のつるつるとした床の上に立っていた。 キーンコーン。 は、として顔を上げる。見慣れた景色、学校だ。ゆっくりと首を動かしてあたりを確認する。私は、狭い廊下にいた。気づけば右肩にカバンを下げている。放課後なのか。外の窓からはオレンジ色の光が差し込み、少しだけ眩しかった。 ふいに左側から、誰かのすすり泣く声が聞こえた。続いてそれを慰める声。 「それはひどかったね」 「本当に、ありえないよ」 ありえない、と繰り返しながら泣くのは、聞き覚えのある声だった。そっとドアの近くに行き、耳をすませる。泣いているのは、あの時エプロンを貸してもらった知り合いの女の子だ。 「そんな人いるんだね、悪女じゃん人の彼氏とるとか」 「うん…悪口になるかもしれないけど、桜木さん、そういうとこあるから」 私のことだ。無意識に、少し後ずさってから周りを確認する。誰もいない。 「ユウはさ、桜木さんのこと好きなんだって」 女の子は、そこでわあっと泣き声をあげ、もう一人の動揺がこちらに伝わってきた。 「…ありえないね」 ユウ、それは私が一年ほど前に仲良くなった男の子のことだった。ユウは私と出会ってからしばらくして、彼女と別れたと言っていた。それが、あの子だったのか。 『悪女じゃん人の彼氏とるとか』 頭の中で言葉が反響している。心が少し、温度を下げるのを感じた。知らなかったんだ。本当に。 ぐるぐる、目が回るような気がした。 「弱い。」 私の中の一人が、そう言ったのが聞こえる。だからなんだ。弱いのは知っている。 ぐるぐる、いつの間にか、回っているのは考えだけではなく、視界自体が回りながら遠ざかっていくのを感じた。視界の先で、教室のドアが小さくなって消えた。そう思うと、今度はまた違う景色が近づいてきた。 ざあっと景色に飲み込まれたかと思うと、今度は荒い砂の上に立っていた。見渡すと、地面から半分だけ顔を出したタイヤの群れ、恐竜の形を模した大きな遊具。そうだ、ここは小学校の校庭だ。 私は少しだけ、体に違和感を感じた。視線を下に、自分の手、腕、足を見る。明らかに小さい。もしかして、成長期前の体をしているのか。 「のぞみちゃん!」 そんな考えはすぐにかき消された。振り返って驚く。この子はエミちゃんだ。エミちゃんは、私立の中学へ行って不良になったと聞く。それがどうした。今目の前にいるのは、完全に時が戻ったような外見をしたエミちゃんだった。 そうか、これは私の記憶なのか。 そんなことを考えているとエミちゃんの後ろからもう一人の子が駆け寄ってきた。顔は覚えている、名前は…思い出せない。 「エミちゃん、私もいーれて!」 その声を聞いたエミちゃんの顔が、あからさまに歪んだ。はあ、とため息をついて、エミちゃんは振り返らず私に低い声で言った。 「まただよ、行こ。」 そうだ、思い出した。エミちゃんは女子の中でもリーダーシップを取っていて、あの時、そういえば一人、いじめられていた女の子がいた。私は幼いながらも、エミちゃんに嫌われることを恐れていた。嫌われた結果、全員から仲間はずれにされることが、怖くて仕方なかったのだ。 でも。私はもう死んだのだ。エミちゃんもクラスの雰囲気も、何一つ怖くなかった。 「いいよ、私今日、ユキちゃんと遊ぶ。」 そうだ。ユキちゃんだ。私はユキちゃんと遊びたいんだ。 そう思ったところで、エミちゃんも校庭の遊具も、またぐるぐると回り始めた。笑顔で、でもどこか泣きそうなユキちゃんが回りながら遠ざかっていく。 全てが遠く、小さい点になったかと思うと、またその点は回りながら近づいてきた。 今度はより視点が低くなったような気がした。周りにはいつの間にかごちゃごちゃと陳列された服が並び、私の前には鏡があった。 私は鏡を見て息を飲んだ。この子はさっき、オールを漕いでいたあの子だ。服装は違うが、間違いない。これは。 「私だ。」 見覚えがある。写真を見るのは嫌いなので、自分のアルバムはあまり見たことがなかったが、思い出した。そうだ、私はこんな顔をしていた。 「のんちゃん、これはどう?」 突然後ろから声が飛んできた。振り返ると、綺麗に化粧をした母がいた。若い。母の肌はハリがあり、自然な色の口紅がよく似合っていた。気づかなかった、母は私と一緒に、年をとったんだ。 「のんちゃん?」 母は不思議そうに私を呼ぶ。母の腕にはピンク色のワンピースと白いタイツがかかっていた。あれはたしか、私が小学校の入学式の時に着たものだ。ピンクでフリルのついた衣装に、カチューシャかなにかをつけて出席した思い出がある。 「ちょっと待って。」 私はそう言い、前に向き直る。私は自分が一着の服を選んでいることに気づいていた。鏡の横に下げられているその服を取る。そうだ、私は本当はこれが着たかったんだ。 「お母さん、私やっぱり」 これがいい、と言えたかはわからない。そこで音が途切れ、また視界が回り出した。手に持っていたチェックのズボンが小さくなっていく。 変えられる。私は考えていた。もう、考えなくていいんだ。考えないって、なんて、なんて。 隣のクラスの子も、エミちゃんもお母さんも、みんな、どうなったんだろう。そんなのは、もしかして全部、どうでもよかったのかもしれない。いつから気持ちに蓋をしていたんだろう。その蓋はどこから持ってきたんだろう。なんで今、息をすることが、心地いいんだろう。 視界が徐々に明るくなり、ついには目の前が真っ白になった。 元の部屋に戻ってきたのか。それにしては、先程とは違いがやがやと声が聞こえる。 ふわ、と体が浮いたような気がした。ゆらゆらと揺れながら、感覚から誰かに持ち上げられていることがわかった。目が開かない。けれど、視界は白い。突然明るい場所に出たのか。 次第にがやがやとした声から、はっきりとした泣き声が上がった。 「女の子ですよ」 泣き声の間から、女性の声が聞こえ、私はまたゆらゆらと揺らされる。 目は、まだ開かなかった。耳をつんざくような泣き声の中、私の額に、柔らかい感触があった。 近くから荒い呼吸が聞こえてくる。私の額に触れた手が、少しだけ動く。 泣き出しそうで、笑い出しそうな、震えた声が聞こえた。 「…これから、よろしくね」 目が開いた。視界には、まっくろで、それなのにふっと息を吹けば形を変えそうなほどはかない、危うい、星空が広がっていた。 星々は変わらず、こちらに向かってじわりじわりと下降している。 その光景が、光のひとつひとつが、放射状にゆっくりと手を伸ばし、輝きを増していった。 突然、右側の視界だけクリアになり、こめかみをあたたかな感触がすべっていった。 泣いている。 そう気付いたとたん、涙が次へ次へと溢れ出してきた。 あたたかな水滴は頭の方へと伝い、次第に髪が濡れていくのを感じたが、動けずに、止められずにいた。止めたいという気持ちも、はなから欠片もなかったのだ。 「どうしました?」 ぎいいとオールを漕ぐ音に混じり、女の子の声が降ってくる。 「いや、」 私は自分の気持ちを探し出し、拾い、言葉として世界に返す。 「もう少し、生きてもよかったなあ」 「そうですか」 女の子の声は、すずのようだった。 私はこんな声をしていたのか。 「わかりました」 がくっと体が揺れた、気がした。 私は変わらずホームで電車を待っていた。いつもと同じ空気、いつもと同じ電車。 両耳につけたイヤホンからはあまり流行らないパンクミュージックが流れっぱなしになっている。いつもと同じだ。 ふ、と風が吹いた気がした。前髪が揺れる。なんだか、今日は、パンクがうるさい。 イヤホンを取って、ここが日陰だったことに気づく。日向に戻ろう、と思った。後ろを向くと、すぐ近くに驚いた顔をした男子生徒が立っていた。同じ制服、同じ学校の生徒だ。もちろん知らない顔だが、着けているネクタイの色で、同じ学年だとわかる。 男子生徒はすぐに顔から落とすように表情を消すと、くるりと背を向け去っていこうとした。 「ねえ!」 男子生徒の動きが止まり、振り向く。私は二、三秒してから、それが私の声だったことに気付いた。 私は彼を呼び止めた。理由は特になかった。 そういえばさっきまで、なにかの理由を考えていた気がする。あたたかい風が、余韻を拭うように吹いていった。 まあ、どうでもいいか。 「グミ、食べる?」 彼の目が少しだけ、朝の太陽を反射したように見えた。
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