黄昏

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 市民センターの二階に、その絵はある。  行政の窓口やら子ども用の遊び場などがある一階とは違い、二階はレンタルスペースがほとんどであり、人の気配はない。  そんな静かな場所の、さらに奥まった場所に、一つの絵が飾られていた。  角を曲がった先。行き止まりの壁に、その絵は飾られている。  まるで囲いのように壁が周りを覆っている。  単なる飾りなのだとしても、絵というのは人の目につく所に飾るのが普通なのではないか。  ここでは、見るものなんていないだろう。  ただでさえ人通りが少ない場所で、こんな覗き込まないと見つけられないような所に飾る意味はあるのだろうか。 「面白い絵ですね」  声がした。 「ただひたすらの闇と、真ん中に空いた空白のスペース。昏いです。とても。あ、昏いっていうのは暗黒の暗のほうじゃなくて、黄昏の昏のほうです」  セーラー服を着た少女だった。 「この絵、夜のような暗さっていうより、夕暮れ時の薄暗さを感じないですか? だから、昏いの方があってる気がしたんですよ。分かりにくいですかね?」  少女は問いかけるように言った。  どうなんだろうか。  暗いより昏い。  夜のような暗黒ではなく、夜の手前の薄暗闇。 「惹きつけられるものってあるじゃないですか」  少女は続ける。 「芸術って、特にそうだと思うんですよ。表面的なだけじゃなく、もっと内側にまで迫って、魂とか心みたいなものを無理やり引っ張っていってしまう感じがします。無形なものを証明できないとは言いますけど、言葉で説明できない心的引力を感じている事実が、ある意味魂の存在を証明しているのかもしれません」  少女はこちらを見ない。そういえば、話始めてから一度もこちらを見ていない。なぜだろう。 「自分の描いた海の絵に投身自殺したい画家がいた。けれど、絵は絵でしかないから望みは叶わない。ついにその画家は波止場に出かけて身を投げる。けれど、飛び込んでも何故か水音がせず、アトリエの海の絵から水音がして、しぶきが上がった」  少女はそんな話をした。 「寺山修司さんの詩です。いい詩ですよね」  どうなんだろう。よくわからない。 「なんで、画家が生きている間に海の絵は本物の海にならなかったんでしょう。どうして命を散らしたら絵が本物になったんでしょうか」  こちらに訊いているのだろうか。 「わたしは、宿ったからだと思います。さっきの話に戻るんですけど、魂とか、強烈な思いや心とかそういうのって、たぶん生きているうちは乗せることしかできないと思うんですよ。だって、わたしたちは生きていて、心も魂も私たちの中に宿っている。それを他の対象に宿らせてしまったら、わたしたちは空っぽです。だから、生きている限りは、他のものにそれらを宿らせることはできないんじゃないでしょうか」  何が言いたいのだろう。この少女は、何を伝えたいのか。 「画家が海に飛び込んで、体から魂なりなんなりが抜けて絵に宿ったから、絵は本物の海になったと思うんですよね。あくまでもわたしがそう考えているだけですけど。ちなみにこの詩は、最後にそんなさみしい絵があったら、是非一枚欲しいっていう風に締めくくられるんですけど……」  少女がこちらを見る。透き通るような薄黒い瞳。  黄昏のような、瞳。  それがまっすぐにこちらを見つめている。 「海の絵とは違うけど、これもそういう絵ですよね」  少女は言った。  これ、とは? 「ご存命だったら、見つけましたよって寺山さんに教えられたんですけどね。残念です」  なにを言っているのだ。 「いつ絵の外に出てきたんですか?」  絵の、中……。 「さみしい場所ですよね。誰からも注目されないですよこんな場所じゃ。こんなに素晴らしい絵なのに目につかないなんて」  さみしい。そうだ。さみしい。絵が売れない。誰にも知られない。どこにも居場所がない。誰もこちらを見てくれない。さみしい。さみしい。だから、この絵を描いた。せめて、作品の中でだけは、光を求めたくて。けれど、結局誰も見つけてはくれなかった。 「見つけましたよ」  少女が笑みを浮かべる。 「わたしは見つけました。この絵も、あなたも」  ありがとう。 「いえいえ。話せてよかったです」  消える。「ここ」にとどまる意識が消えていく。  どこへいくのだろう。ここにいる「自分」は。どこへ。  絵の中へ帰るのか。  けれど、あまりさみしくはない。  見つけてもらえた。  それだけで、いい。  それだけで……。 「こんな所にいたんだ」  絵の前に立っている少女に、同じ制服を着た少女が声をかける。 「連絡入れても返ってこないから心配しちゃったよ。あれ? こんなところに絵なんてあったんだ」  少女は絵を見ながら言った。 「うちのおばあちゃんが通ってるフラダンス教室ってここのレンタルスペースでやってるんだよ。お母さんが迎えに行けない時は私が迎えに来てるんだけど、おばあちゃん終わったあとの話が長くてさ。ちょっと待つんだよいつも。ここって一番奥の方だし、人も来ないから、折り畳みの小さい椅子を持ってきて時間潰してるんだ」 「場所が良くないですからね。なかなか見つけてもらえなかったんだと思います」 「ちょっと怖い絵だね」 「そうですか?」 「うん。なんか、色とかも黒っぽいし。でも、真ん中は明るいんだね。明るい方に向かって歩いてる人も描かれてるし。これって、暗い気持ちから明るい気持ちへ移り変わるみたいなことを描いてるのかな。まあ私は絵のこととかよくわかんないけど。どう思う?」 「描いた人の気持ちは本人に訊いてみないとわかりませんよ。どうなんですか?」  少女は絵に向かい問う。友人は「絵に訊いても答えてくれないよ」と笑った。 「じゃあ、行きましょうか」 「うん」  二人は並んで歩き出す。 「おすすめの本を教えてくれっていいましたよね」 「そうそう。本をちゃんと読み始めようかなって」  二人がここで待ち合わせたのも、市民センター横の図書館へ行くためだった。 「ここで待っている間に、読み直したい話は見つかりました」 「ほんと? なになに?」 「ミュリエル・スパークの後に残してきた少女というお話です」 「どんな話なの?」 「それは読んでからのお楽しみということで。でも、そうですね。どんな話かを答えるなら……」  少女は今来た道。絵があった方を振り返る。 「自分が自分を見つける話です」  少女はそう言い、小さく笑った。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!