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三.モンヂの調査、下町
徹夜明けのまま駆け回っていたのだが、家に着いても頭が冴え過ぎて眠れずつい酒が深まり、翌日はその快方と後悔に費やすのみとなってしまったモンヂが、
「今日休むわ!悪ぃ、伝えといて!」
工場の入口から大声で言い放ち返事も待たずに走り去ったのは、さらに翌日の朝だった。
こういう小難しそうな話はとりあえず学校の講師にでも聞けばわかるだろうと、その足で工場裏の、主に工員の子供たちが通う工場附属の初等学校に向かう。
学校とは言え通い方は自由で、家の仕事を手伝っている子供には自分の学びたいことだけを学んで後は全く来ないという者も多いし、年齢を問わず学びたいと思えばいつでも自由に通えるため、現役の工員や引退した元工員が学び直しに来たりもしていた。
煉瓦造りの校舎に入るとちょうど講義が始まるところだったらしく、五十人ほどの生徒たちを前に、髪をきっちりと七三に分けた細身の男性講師が挨拶をしていたが、モンヂに気が付き、
「いやぁ!モンヂ君!珍しいね、学校に用事があるのかい!?」
と笑顔で大袈裟に声を張り近付いてきて、モンヂの肩を叩いた。
「あ、あぁ、どうも、ナサリーさん」
六年前に亡くなった腕利きの鉄鋼職人だった父親への物心ついた頃からの憧れで、幼少のモンヂは勉強などより職人の腕を磨きたいと工場をうろちょろと出入りしており、文字と基礎算術を覚えて以降は学校にはほぼ通っていなかったが、工場のすぐ裏なので講師と顔を合わせることは多く、その度にこの調子で話しかけてくるナサリーには毎度押され気味だったが、
「あぁー、モンヂじゃん!鉄鋼馬鹿が何しに来たんだー!?」
「今さら勉強したって遅ぇぞ!!」
モンヂに気付いた室内の子供らが大喜びで騒ぎ始めた。
「うるせぇぞガキども!別にお前らと一緒に勉強しに来たわけじゃねぇよ!」
すごんで見せるが子供らは全く気にも留めず、なおさらはしゃぎ出す。
「ははは、子供たちに人気者だねぇ、モンヂ君は。しかし勉強しに来たんじゃないとすれば、一体何の用なのかな?」
なにやら嬉しそうなナサリーに、どう聞いたものかと思いながらも、
「えぇと……なんつーかな、ちょっと……歴史?じゃねぇか、なんだ、まぁとにかく、この国のなんか国っぽい国の話で聞きてぇことがあって来たんだけど」
と尋ねてみると、ナサリーはひどく感動した様子で何度も頷き、
「そうかそうか、君もついにそういうことが知りたくなってきたか。
しっかり仕事をするようになると色々見えて色々見え方も変わってまた新しい疑問も湧いてくるものだからなぁ。
素晴らしいことだよ。
勉強は、本人に学ぼうという気持ちがある限りは幾つになっても続けられるものだからね。
学ぶことでまた大きく成長できる。
勉強無くして成長無しだ」
と熱く語り始めた。
「いや……仕事とは直接関係ねぇような気もするんだけど……」
「いいんだ、今は関係無いように見えるかも知れない。
しかし学んだものはそれを忘れぬ限り、何かに活かそうという向上心、応用心がある限り絶対にいつか役に立つものだよ」
「はぁ……」
さらに続けるナサリーに、ずっとこんな感じで話が終わるんじゃ、と若干不安になるが、
「そうだな、しかし……モンヂ君の言うような国の地歴法政関係は私の専門では無いしなぁ。
君が望むような話はできないかも知れないねぇ」
「あぁ、そうなの……」
まぁ鉄鋼加工場の附属だしなぁ、そういうのあんまり必要ねぇもんなぁ……。
ナサリーの言葉にがっかりしていると、
「しかし昔お世話になった恩師にその分野の専門家がいるな。
上等学校だがね、非常に面倒見の良い方だから基礎的なことでも丁寧に教えて下さるはずだよ。
……これがその方の名前と住所だ。
自宅兼学校兼研究室だから、だいたいいつでもここにいるはずだよ」
ノートを一枚破るとさらさらと走り書き、モンヂに手渡した。カトリアナ・ワクサという名が記され、住所を見ると西ゼムフィルの桁の低い番地だった。
ゼムフィルは番地の桁が低いほど上級で小奇麗な住宅街になっていると聞いている。
「おぉ……なんかすげぇ人っぽい気配の感じの住所……。
ありがとうございます!」
礼を言って出ようとするモンヂの肩を抱きナサリーが、
「ははは、学びたいという者に学べる場を提供するのも私の仕事だ。
勉強の大切さ、素晴らしさに君が気付いてくれたんだ、私はそれを一時の熱で終わらせないようにいくらでも援助するよ。
私もまだ私の知らない分野のことを色々勉強したいという意欲が湧いてきたな。
世界はまだまだ知らない、わからないことでいっぱいだ。
人生これ勉強なり、だね」
などとさらに語りが熱く続きそうだったので、
「はは、そうだな、俺も頑張るよ、ほんと、ありがとうございました!」
再び礼を述べ急ぎ足で部屋を出ると、
「急に勉強なんかしてハゲんなよ、モンヂー!」
「無駄って言葉知ってるかー!?」
その背に子供らの熱い声援が浴びせられた。
それから近所の馴染みの店で食事をとり自転車で二時間弱、昼過ぎには目的の住所に辿り着いた。
ダートバングでは見かけない上品な造りの大きな家に訪ねるのを躊躇しながらもとりあえず扉を叩くと、しばしの間の後、一人の背の高い老婆が扉を開けた。
「あの、えぇと……カトリアナ・ワクサさん……?」
「あぁ、そうだけど……何かご用かい?入学希望……って感じにも見えないが……」
モンヂの格好を見て怪訝そうに老婆が言うのでナサリーにもらったメモを見せながら、
「あぁ、えぇと、ここで昔学んでたってナサリーって講師から紹介されたんだけど……」
「ナサリーと言えば……あぁ、もしかしてターストール・ナサリーかい?
ダートバングの工場専属講師をしてるはずの」
「あぁ、たぶんそうです、七三分けで目が細くて、なんかすげぇ熱血な感じの」
「そうかい……懐かしいね……。
で、そのナサリーの紹介で何を学びに来たんだい?」
モンヂの説明に老婆が懐かしそうに表情を緩め、再び尋ねる。
「うーん、学びにっつーか……。
もしかすんとただの一般常識なのかも知んねぇんだけど、とにかく下町工場の男子や講師じゃ手に負えねぇ感じの、国の国っぽい国がやってる国的な?なんか、っつーか、なんつーか……」
「はは、まぁよくわからないがせっかくだから聞こうじゃないか。
上がりな、えぇと」
「あぁ、俺はモンヂ・バックと言います」
カトリアナに案内されてモンヂは部屋に入った。
一階はほぼ一部屋の広い空間になっていて、中心にまとめて並べられた机に向かう数人の生徒や研究生がおり、モンヂのことを気にも留めずに資料を読んだり何か書いたりしていた。
机の周囲を二重に取り囲むように書棚が並んでいて大量の書籍が整然と収められてはいるものの、入り切らない本がさらに書棚の上や床に平積みされている。
その手前に窓に向かった机が一つあり、カトリアナはその机を背に椅子に腰掛け、小さなテーブルをはさんだ向かいにモンヂを座らせた。
「さて、うちの専門で、下町工場の男子や講師じゃ手に負えねぇ感じの、国っぽい話というと、地歴法政とか中央管理会とかの話かい?」
生徒の一人が運んできた茶を飲み、モンヂにも勧めながらカトリアナが改めて尋ねる。
「いや、そういうんじゃねぇ……かなぁ?
って、うーん、何から聞いたらいいかもよくわかんねぇんだけど……。
まぁ、とりあえず……そう、つむぎびと、って、知ってる?」
細かいことはわからないし面倒なのでいきなり核心の単語を出すモンヂだったが、カトリアナは眉間に皺を寄せてしばらく考え込み、
「つむぎびと……?
……聞いたこと無いねぇ。
下町の紡績職人とかその店とかじゃなく?」
「違います」
あれ、おかしいな、専門家なのに知らない……のか……?
「ふぅーん……。
これでもまぁまぁ色々知ってるつもりなんだが、なんだい、それが国とかそういうのに何か関係があるのかい?」
つむぎびとという言葉から連想される国絡みのことを全て思い出そうと、指先でこめかみの辺りを軽く叩きながら、確かめるようにカトリアナはモンヂの目を見る。
「いや、たぶん関係あるんだと思うんだけど、いまいち本人もその辺、深くはわかってねぇっつーか、だからその関係を知りたくて来たんだけど……。
えぇと、その……つむぎびとっていう、なんか特別な能力を持った娘がいて、この国も元々はその娘を中心に作られてて、代々そのつむぎびとの特別な能力で国を繁栄させて守ってきたって、それは全国民の常識だぜっ、みたいな感じのことを聞いたんだけど、俺はろくに初学も出てねぇし、下町はそういう国だの歴史だのみてぇなことはわかんねぇやつらばっかりだし、だから今まで一度もそんな話聞いたことねぇだけなのかなぁと思って。
で、でもその娘は自分のやってることが国の何に使われてるかも知らねぇってんで、じゃあその辺を俺が調べてきてやるぜ、っつー流れになって」
社でのディトとのやり取りを思い出しながらざっくりと説明するモンヂだったが、カトリアナはますます怪訝そうな顔でモンヂを眺め回して、
「ふぅん……長いこと国や歴史の研究をしているが、そんな話は初耳だねぇ。
だいたい特別な能力を持った娘だって……?
大丈夫かい?
そんな風には見えないが、お前さん意外とそっち系の……」
と別の疑問を浮かべ始める。
「いやいやいや、違ぇって!
直接会って、話もしてんだよ、リトミルトの森の頂上の変なすげぇ建てもんで、なんか銃とか持った兵隊が警備してたりとかしてて……」
と弁解するモンヂの言葉にカトリアナは少し真剣な表情に戻り、
「ふぅーん、それはなかなか穏やかならないねぇ。
リトミルトの森か……。
確かにあそこは十年ぐらい前から、一般人の立ち入りを禁止するお触れが出たりしてるからねぇ。
知らずに入っちまったのかい?」
「あ、あぁ、そうなの?
全然知らなかったわ……」
道に張られていた立入禁止のロープのことは知らない振りをして答える。
「ま、歴史的には元々王族、貴族の土地だったからね、お触れなんか無くても普通は誰も気軽に入りゃしないんだけど……あぁ、だったらそうだ、その建物や兵隊の紋章か何か見たかい?
それでたいがいそこがどこの誰のもんなのかわかるはずだよ」
「あぁ、そういうもんなのか?
さすが、すげぇな。えぇと……」
やっぱり専門家ってのはそんなんで何でもわかるんだな、と関心しながら、街でもめた時にクノパトの胸に一瞬見えた紋章を思い出す。
「そうそう、金色で……犬かなんかが剣を咥えてる感じの、いかにも金持ちっぽい調子こいた感じのやつだったな、確か」
クノパトを思い出しつい棘のある言い方になるが、聞いたカトリアナの顔色が変わった。
「まさか……その犬かなんかってのは、もしかして狼じゃなかったかい?」
「あぁ……そうかも知んねぇな、よくわかんねぇけど」
「なるほどね……そいつは……。
その紋章は、剣狼という王直属の護衛隊のものだよ。
つまりそこは王が直轄する何らかの施設ってことになる」
「王!?マジか!?
……あぁ、でもまぁディトの話の内容からすれば別におかしかねぇか……」
それよりもあのクソ生意気な野郎が王直属の兵隊という方が、なおさら気に入らない気分だった。それであんな調子こいてやがったのか、あの野郎、などと心の中で毒づくモンヂだったが、全く別のことを考えている様子のカトリアナが、
「そうか……リトミルトの森にはそんな所が……。
となれば……そうだ、その娘の特別な能力ってのは、どんなものなんだい?」
今度は真面目に興味深げに聞いた。
「あぁ……なんか小難しくてよくわかんなかったんだけどな、万物からその存在の意味を、自分以外には見えねぇ糸として抜き取るんだとかなんとか……」
「万物の……存在の意味……見えない糸……。
聞く限りはやっぱりただのお伽噺みたいだけど……しかし王が直接関係しているとなると……。
で、その糸がその先どう使われてるかはその娘自身も知らなくて、それをお前さんがお節介にも調べて回ってるって話だね。
ふぅーん……なら……そう、お前さん、離宮のティアロロスの噂は知ってるかい?」
「ティアロロス?
あの有名なお伽噺の翼の生えた女神か?
それが何か関係あんのか?
なんだよ、そっちの方がよっぽどやべぇ話っぽいじゃねぇか」
急に話が本物のお伽噺に飛びわけがわからなくなるモンヂに少し笑いながら、
「最近、離宮の近くで翼を持った人間が空を飛んでいるのを見たってもんが出てきてね、王が密かにティアロロスを飼ってる、なんて噂が広まったんだよ。
知らなかったかい?」
「はは……なんだそりゃ、有り得ねぇよ」
カトリアナの話にモンヂは笑うが、
「あぁ、そこだけ聞けば有り得ねぇで終わる話さ。
だがそれとはまた別に、その離宮には王がウィンハ戦争の孤児のために建てた孤児院があってね。
ウィンハ戦争は……よく知らないかい?
十年前に隣のトーンコトクとの間で起こった、初めから終わりまで釈然としない後味の悪い戦争でね。
戦争自体は二十日も経たずにこっちが折れて終わったんだが、かなりの被害が出て何百人という親を失った戦争孤児が発生しちまって、王が責任を取ると言って、その孤児たちを自分の個人的な財産を使った孤児院を建てて引き取ったのさ」
「ふぅーん……?で……」
再び話が飛んで混乱した様子のモンヂに、まぁ最後まで聞きな、とカトリアナが続ける。
「で、ティアロロスの噂のせいで離宮や孤児院に人が集まるようになってきちまってあんまり騒ぐもんだから、離宮側から、噂になってる翼の生えた人間のように見えたものはティアロロスなどでは無く、その孤児院の子らの職業訓練として新型の工業器具の開発をしているだけだって発表があったんだ」
「新型の工業器具?
空を飛ぶような?
そんなもん聞いたこともねぇけどなぁ。
だいたい下町の夢の話だぜ、そんなもん」
空を飛ぶ機械を作るというのは、鉄鋼に限らずあらゆる職人の間での、夢であり目標であり、しかし未だ叶わぬ、どうせ無理だろうけどな、という笑い話でもあった。
それを密かに成功させているということなのだろうか。
「あぁ、そうさ。
アタシも知る限り、この世界で今までに空を飛ぶ道具や機械なんてものは作られたことが無いし、ましてや人が空を飛べる能力を持つようになった、なんて馬鹿げた話も無い。
だがお前さんの話に出てくる娘が本当に特殊な能力を持っていると仮定すれば、恐らくその目に見えない糸ってのが、何らかの形で空を飛ぶ道具を生み出す原料として用いられているのかも知れない、とは考えられないかい?
その娘もティアロロスも孤児院も新型器具も、すべてに王が直接関係しているとなれば、全部つながっていると考えても不自然じゃないだろう。
工業技術系は専門じゃないんで、その糸が何なのかとか、作り方とか原理とかそういうのはさっぱりわからないし、つむぎびとってのが代々続いてるとかいう辺りは、ちょっと訝しいところではあるけど……」
「うーん、まぁ確かに、代々続いてるんだったらもっと昔から空飛んでてもおかしくねぇしなぁ……。
代が変わる度に能力も何か変わっちまうとか?」
ディトが嘘をついているようには見えなかったので、別の可能性を考えてみるが、
「さぁね、お前さんの話からじゃこれ以上は何もわからないし、相手が王となれば、この先は我々一般人には踏み込めない領域だよ。
だいたいお前さんがこんなことを知ってるって方が……っていうか、ちょっと待った、よくそんな剣狼が守っているような所でその娘と直接会えたもんだね。
元々知り合いか何かなのかい?」
重大な不自然さに気付きカトリアナがモンヂに問うので、
「いや……なんか警備とかそこの建てもんの造り自体はチョロいもんで、いくらでも入ってくれっつーぐらいの感じだったから、普通に屋根から忍び込んで」
てへっ、と、子供のやんちゃ話をするように照れ笑いをしながら答えるモンヂに、
「は、は、大したもんだ、若いってのは恐ろしいもんだよ」
「あはは、そうかなぁ」
「褒めちゃいないよ、二度とそんな真似しないことをお勧めするね」
「あぁ……やっぱり……」
真剣な顔で言われ頭を掻いて悪びれるモンヂに大きくため息をつきながらも、
「まぁ……アタシもこの国やこの大陸の歴史を研究してるもんとしては、今まさに裏で動いている歴史そのものといった非常に気になる話ではあるんだけどね……、まっとうな感覚で言えばそこに自ら関わるもんじゃないね、人にも言わない方がいい。アタシもそうするよ、みんなもいいかい?」
作業をしながらも聞いていたであろう研究生たちを振り返りカトリアナが言うと、手は止めぬまま皆無言で頷いた。歴史を深く研究しているとこういう触れてはならない話というものが時折現れるものなのかも知れず、けっこう慣れてんのかな、と思い眺めていると、
「さ、とりあえず知りたいことはだいたいわかったんじゃないのかい?
どうも無茶をしそうな性分と見えるが、本当に絶対にこれ以上関わるんじゃないよ、万が一にも王に見つかりでもしたら、お前さんはその日のうちに森の獣の餌さ、わかったね?」
カトリアナが強い口調でモンヂに忠告した。
話としては中途半端だったが、これ以上は何も聞けそうにない雰囲気だったのでとにかく礼を言ってモンヂはカトリアナ宅から出た。
しかしディトのいるあの建物が王が直接関わっているヤバい場所なのはわかったが、簡単に入れたという事実もあっていまいち危機感が薄いため、やめろとは言われたもののもう一度行ってディトに調査結果を伝えるという目標に変わりは無かった。
だが今聞いた話だけでは、糸を使って人が空を飛ぶ道具を作っているかも知れない、という根拠も無い漠然とした内容しか無く、その道具というのが具体的に何なのかも、本当に糸が使われているのかもわからない。
そこをどうにか確かめてぇよな……。
離宮……っつってたけど、離宮ってどこだ?
つーか離宮って何?
……しゃあねぇ、他をあたるか……って、あ、ここガンリットだったな。
だったらこういう、国のなんとかっつー話が集まりそうな場所、ちょうどこの近くに……。
思い当たり自転車を漕ぎ出し、やがて辿り着いた夕暮れの北ガンリットの繁華街は、早くも道沿いに石炭灯が立ち並び煌々と夜を照らすのを待ち侘び、食事や酒や愉楽を求める人々が多く往来し賑わっていた。
モンヂはその大通りに並ぶ店の一つの前で自転車を止めると、きらびやかな装飾を施された扉を開く。
「ようこそいらっしゃいませ……って、なんだ、モンヂじゃない!?」
夜の店ならではの派手に盛った栗色の髪に、豊満な胸を強調し大胆なスリットで太ももを露わにしたドレスの女子が、商売向けの笑顔からやわらかな笑みに変わる。
「よっ、ルア……っと、ここじゃシアだったか」
「ルアでいいわよ。
ていうか久しぶりねぇ、何よ急に?
あ、でもご指名だったら、私は今夜は予約がいっぱいだから、他の娘にしてね」
「あぁ、いや、別に遊びに来たわけじゃねぇんだけど……」
「うーん、ならごめん、今時間無いのよね。
閉店後なら……二時ぐらいとか来れる?」
「あぁ、悪いな、忙しいとこ。
でも二時か……ちっとめんどくせぇな……。
あぁ、そこの物置でいいからそれまで寝かしてくんねぇか?」
正面入口から少し離れた右手に見える、店構えとは真逆の地味な扉を指して言う。
「はぁ!?超汚いわよ?
あんた相変わらずそういうの平気なのねぇ。
……ほんとにいいの?」
ルアが開いた扉の向こうは、埃まみれという程でも無いが掃除用具や古びた椅子や食器などが雑然と詰め込まれていて、寝所としてはおおよそ考え難い状態であったが、
「あぁ、体伸ばせんじゃん、充分充分。
じゃ、時間になったらよろしくな」
言いながらモンヂは棚の隅から染み汚れたテーブルクロスを引っ張り出すと床に敷き、座って手を振った。
カトリアナの小難しい話に普段の数倍頭を使ったせいか、横になると一瞬で眠りに落ち、ため息まじりに出ていったルアが数時間後に再びため息をつきながら現れるまで全く目を覚まさなかった。
「ほんとよく寝れるわね、こんな所で……ほら、埃ついてる」
「あぁ、悪ぃな……ってか、悪ぃついでに何か食わしてくんねぇかな」
「言うと思って、残り物ぐらい用意してあるわよ」
「助かるぜ、昼から何も食ってねぇんだよ」
「ったく……あ、ママ、これがさっき言ってた地元のやつ、モンヂね」
物置を出て正面入口の扉を開いたルアが、小柄ながらもルアとはまた違った大人の色気を匂わせる女性にモンヂを紹介した。
「あらぁ、よろしくね、モンヂ君。
いかにも元気そうな下町職人って感じねぇ、男前ねぇ」
「あ、あぁ、ど、どうも」
一体いくつぐらいなのだろう。
店主と言うからにはルアよりは一回りほど歳上だとは思われるが、そのやわらかくにこやかな丸顔の表情からは年齢を読み取ることができない。
「ふ、ふ、ふ……。さ、どうぞ、モンヂ君。とりあえず座りましょうか」
年齢不詳の店主にいざなわれるままに奥へと進み脚の低い金縁のテーブルにつくと、その向かいのソファに腰掛けた店主が、
「私はジェシルと申します。
どうぞよろしく、今後ともご贔屓に……なんてね、ルアのお友達なんでしょう?
堅苦しいのは無しってことでいいかしら?」
と微笑んだ。
その幼顔に似合わない真っ赤な口紅の違和感が逆に艶を感じさせ、
「あ、はい、どうも……」
目線を泳がせいまいち慣れない様子のモンヂに、
「で、何の話があって来たのよ」
残り物にしてはしっかりと作られた三品ほどの料理をテーブルに置き、店主の隣に並んで座ったルアが苦笑しながら促すと、
「あぁ、そうそう、話な……えぇと……とりあえず頂きます、食いながらでいいよな?」
言いながら既に食べ始めているモンヂに二人が子供を見るような目で笑い頷く。
「相変わらず美味ぇな。
……えぇと、ここってさぁ、場所的に上町とか国営工場の関係者とかもよく来るんだよなぁ?」
「まぁそうですねぇ、こういうお店には、自然といろんな人が集まってきますからねぇ」
焼き飯の中の、入れ過ぎとも思える数の大きな揚げ海老を頬張りながら尋ねるモンヂの口元に付いた米を、長く赤い爪先で取り払いながらジェシルが答える。
「じゃあさぁ、国のこととか、例えば離宮のこととかも話に出たりすんの?」
「離宮って……あぁ、もしかしてティアロロスのことかしら?」
「やだ、あんたあんな噂話を真に受けてんの?
色々尾鰭が付いてみんなが見たような感じになってるけど、実際のとこ一人二人がそれっぽい物を見たってだけなのよ?」
「あぁ?そうなの?」
ルアの言葉に流し込んだスープでむせそうになるモンヂだったが、
「つーか……そもそも離宮って何?どこにあんの?」
とにかく場所だけでも聞いてしまおうと堪えて飲み込み、続ける。
「ほんとにそもそもね……。
離宮を知らないやつがいるなんて、しかもこんな身近に」
「ふ、ふ、ふ、毎日熱心にお仕事に打ち込んでたらそんな関係ない世界のお話なんて聞こえないものよねぇ。
離宮というのはここからずっと北、上町を過ぎて王都フォラトスよりさらに北西の、神の背骨、アティアラタス大山脈の麓に広がる森の入口にある、王族の別荘みたいなものよ。
と言っても今じゃ使ってるのはほとんどウィドラック王だけで、四人いる王妃やその子供たちもたまにしか訪れることは無いという話だけど」
あきれ顔のルアの横で、手ぬぐいをモンヂに渡しながら微笑むジェシルが答えた。
「ふぅーん、そっち側か……ちょっと遠いな……」
国の南端付近がモンヂの工場を含む工業地帯であり、真逆の北端付近にある離宮には自転車で何時間かかるのか考え始めるモンヂに、
「って、あんたまさか行くつもりじゃないでしょうね。
やめなさいよ、時間の無駄だって」
「あ、あぁ、いや、行こうかどうか考えてるだけで、別に……」
「まぁいいじゃない、職人の憧れだものねぇ、空を飛ぶ道具なんて」
「でもきっとこいつ柵の外から眺めて何も見れなかったら中に入るわよ。
昔からどこにでも平気で入り込んで怒られてばっかりなんだから」
付き合い長ぇと何でもお見通しかよ、さすがだな。
既に社に侵入してきた上でここに来ているため心の中で苦笑するモンヂに、
「あらぁ、そんなことしちゃう子なのぉ?
絶対に駄目よぉ、命知らずも甚だしいわぁ」
ジェシルが大袈裟に口に手を当てて驚く素振りをしているので、そう言えばと、
「ってかさぁ、いまいちよくわかんねぇんだけど、王様ってそんなにヤバいもんなん?
下町じゃ全然関係ねぇ世界だから話題にも出てきやしねぇしさぁ」
カトリアナもやけにヤバそうな感じの物言いだったしな、と首を捻るモンヂ。
「そうねぇ……まぁ私も直接お会いしたことがあるわけじゃないけど、そりゃあ王様ですもの、国のすべての上に立つ、国のすべてを意のままに動かせる、特別な存在なのよ。
相手が一般民衆であっても、政府の高等な役職に就いている官吏のような人であってもね」
恐らくそのどちらからも虚実肯否入り乱れて王の色々な話を聞いているのだろう。
色んな世界の事情通って意味じゃ、講師とかよりよっぽど色々知ってんのかもな。
「じゃあ離宮なんか勝手に入ったりしたら、なんつーかこう、森の獣の餌に……的な?」
「あらぁ、女性にそんな恐ろしいことを言わせるつもりかしらぁ?
察して欲しいわぁ」
わざとらしく顔を覆って首を振るジェシルだったが、その隣で少し不安げな顔でモンヂを見詰めているルアに気付き、
「そっかぁ……。
まぁ見れるかどうかも怪しいってんなら、確かに時間の無駄だしなぁ。
わざわざ行くほどのもんでもねぇかなぁ」
モンヂは仕方無さげに天井を見上げた。
「そうよ、だいたい工場とか女湯に忍び込むのとはわけが違うんだからね」
「あら、いやだわぁ、そんな所にまで入っちゃう子なのぉ?
私なんだか悲しいわぁ」
「ちょ、馬鹿、そんなもん五歳とかそんな頃の話じゃねぇか、今もずっとやってるみてぇな言い方すんじゃねぇよ!
ったく、じゃあもう帰るぜ!
メシありがとな!」
五歳で女湯に忍び込む方が末恐ろしいわよねぇ、やぁねぇ、他にも色々あるんでしょうねぇ、などとひそひそ始めた女二人に、これ以上ここにいても得するものなど何も無いと立ち上がり、軽く手を振ると扉に向かって足早に歩き出したモンヂに、
「あ、待って、悪かったって、外まで送るわよぉ」
笑いながらルアが後を追い、
「またのご来店をお待ちしておりますわぁ」
微笑むジェシルがゆっくりと手を振った。
「じゃあな、メシありがとな」
店の外で自転車にまたがって振り返るモンヂに、開いた扉にもたれたルアが頷き、
「ん、まぁまた来てね。
森の獣の餌にならないで、五体満足で」
「あはは、怖ぇこと言うなって。
まぁ適当にまた来るからよ。
じゃあな」
手を振りながら颯爽と自転車を漕ぎ始めるモンヂだったが、
「って、そっち上町の方じゃない……。
この馬鹿……せめて私が見てる間ぐらい、ちゃんと帰るふりぐらいしなさいよね……」
闇夜に消えたモンヂの背に複雑な表情でため息をつくと、ルアは店に入り扉を閉めた。
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