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だが、明け方のことだ。枕元に置いた携帯の振動で浅い眠りから目を覚ますと、画面には見慣れた番号と【バカ】の文字があり、すぐに出ると『いま何してんの?』といつもの間抜けな高鷹の声がした。珠希は部屋からそっとベランダに出ると、「何してるのって、朝4時になんかすることあるの?」と掠れた声で聞き返した。
『えー、だって夏休みだぜ』
「そうだけどさすがに寝るよ」
『俺いまどこにいると思う?』
「知らないしどうでもいい」
『今ねー、品川埠頭ってとこ』
「埠頭?……海?」
『そ。バイクで』
「川崎からでしょ?もうそんなに乗ってるんだ」
『あっつー間だよ、むしろバイクだと品川なんか近所。まあ電車でも近けえけど」
「へえ」
『……なー珠希ちゃん、もし違っても怒らないでほしんだけどさ』
「……なに?」
『誰かとヤったろ』
「……なんて?」
『誰かと浮気したあとだろ?当たり?』
ゴクリと息を呑み、手すりにもたれたままずるずると脱力したようにしゃがみこんだ。
「……なんで?」
『即座に否定しないあたり、どーやらマジらしいな』
「待って、なんでそう思うのか教えて?」
『声が』
「?」
『声がなんとなく。……珠希ってなぜか、ヤってから寝ると声ガラガラになるじゃん。どんなに声抑えてもよ』
「へ……?そーなの?たしかに今はちょっと……でも寝起きだし」
『いーや、寝起きとかじゃない。本当に声がいつもと違うんだって。あとすげー眠そうでダルそうな顔になる。きっと俺にしかわからない変化だけどな』
「……」
『黙りこくんなや』
「なんにも言えない」
『誰だか知んねーけど、そいつのこと好きなの?』
「……ちょっとね。おバカさんなところが」
『いつから浮気してた?』
「昨日初めて」
『好きになったのは?』
「昨日初めて」
『……会ったのは?』
「昨日初めて」
『なんだそりゃ!バーカ、会って即ヤられてるだけじゃねーか!俺ですら会っていきなりってのは無かったぞ。……浮気じゃなくて、付き合うときの話な』
「そう。……でも長い1日だったんだ。とっても」
『俺らの1年の方がなげーだろ』
「長過ぎたかもね」
『……は?』
「高鷹には長過ぎたんじゃないの?僕にはたったの1年だけど、君にはやっと1年って感じでしょ。毎日居たいって気持ちをわかってくれないんだもん。去年はずっと居てくれたのに」
『こんな時間にそんな深刻な話をされるとはな』
「こんな時間に掛けてきたのは君でしょ」
『珠希はほどよい距離感をわかってねえんだ。そこがガキだよな』
まるで自分が銀次に抱いていた気持ちを、そのままぶつけ返されたようだ。
『寂しいからって他の奴に走ったって、そんなお子様じゃ誰ともおんなじことの繰り返しだぜ』
「自分だってどーせ浮気してるくせによく言うよ」
『信じてもらえねえかもしれねーけど、俺は今年入ってから1回も他の奴とヤってないぞ。俺のチンコはすっかり珠希専用だ』
「嘘つき。てゆーかやっぱり去年浮気してたな」
『ダリーことばっか言うなや。俺はもう今年から心を入れ替えたんだ。つーかちょっと会わねえだけで浮気されてるとか、どんだけ被害妄想強いんだよ。俺を信じないから浮気なんかするんだ。人を信じられない奴は自分も信用できないってことだぞ。だからそーやって被害者ぶってすぐ人を疑う。カイザーがいい例だろ、ビョーキレベルで心を開けねえから虚言癖だし誰とも仲良くなれねえんだ』
「いい例にもなってないしハルヒコくんとも一緒にしないで」
『でもカイザーは珠希みてえに浮気とかはしねーだろうな』
「自分を棚に上げてよく言えるよね」
『今は何を言ってもお互い様だぜ』
「あーそうだね」
『……なあ、そこまで思いつめるなよ。飽きたのはたしかにちょっとあるけど、珠希のこと嫌いだから会わないってわけじゃないんだぞ。お前がいなくなったら俺の学園生活の楽しさも半減だ。やる気なくなってテニスも辞めるかもしれねーな』
「でももう遅いよ、違う人とセックスしちゃったもん」
『1回くらいどーでもいいわ。ちょっと遊んだくれーでグズグズ因縁つけられるのは俺だって嫌だ』
「ぜんぜんヤキモチとか妬かないわけ?」
『そりゃー相手にはムカつくけど、しゃーない。そいつが珠希を取ろうとしたり、2回も3回もヤられたりしたらさすがに冷めるけどな』
「……」
『お前を信じるぞ。2回めは無いって』
「……ごめん」
『いいよ』
「高鷹ほんとうに好き」
『だろーな』
「パパとママの遺産もらったら楽させてあげるからね」
『頼むぜ』
「次はいつ会えるの?」
『だから2学期っつってんだろ』
「我慢する」
『会ったら死ぬほどヤろうな』
「うん!」
『じゃ、帰るわ』
「気をつけてね」
通話を切り、珠希はへたり込んだまま携帯を胸に抱いた。あの男を好きになったことに、やはり間違いはなかったのだ。なぜならバカな自分には、同じくらいバカな彼がちょうどいいからである。それだけではないが、ともかく今は、彼の軽薄で軽率なあたたかい言葉が胸に沁みた。
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