He is gone

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「帰りはまだ気楽だよ。空港泊しなくていいから」 穏やかな海風に反し、帰国の日は疾風のごとき速さでやってきた。木曜日。鬼門のキト空港は乗り継ぎのために降りるが、今度はそのまますぐにニューヨーク行きの便に乗り込むことができるので、天音の心は軽やかだった。午後3時。日本はもう金曜の朝だ。最初に降り立ったバルトラ島までハルヒコが見送ってくれ、ふたりは空港で飛行機を待っていた。 「どこにも泊まらずニューヨークから一気に日本まで飛ぶのか。月曜寝込むんじゃないか?」 「機内で寝られれば問題ない。……寝られる自信はないけど。ま、向こうに着いてもまだ土曜だし、日曜にちゃんと休めばどうにかなるよ」 「お前のことだから平然とサッカーとかしに行きそうだ」 「行っても観戦までだね」 「たまにはじっとしていろ」 それからしばらく無言でぼんやりと掛けていたが、搭乗のアナウンスが流れ、天音が「行かなきゃ」と立ち上がった。ハルヒコは大股で腰掛けたまま、ポケットに手を突っ込みじっとしている。 「……ねえ」 「ん?」 「ちゃんと帰ってくるよね?」 「ああ。3ヶ月以上は滞在できんからな」 「そうじゃなくて」 「……」 「またちゃんと元どおりの生活に戻るよね?ってこと」 「元どおり?」 「夏休み前の生活だよ」 「うむ。……まあそうだな」 「戻る気ある?」 「戻る気はないが、ほかに行くところもないからな」 「ふわふわしたことばっか言ってないで、ほんとにぜったいちゃんと来週帰ってくるんだよ?帰らなかったら今度はおじさんが迎えにくるんだからな。超怒ってたから本気だよ」 「ふん、あんなもの取るに足らん。……心配は無用だ。必ず戻る」 「……」 「そんな顔をするな」 立ち上がると天音の頬を指でつつき、鼻先を軽くつまみあげ、「もう行け」と言った。 「ここまで来て君を連れ戻せないとは思わなかった」 「ちゃっかり楽しんでおいて何を言う」 「……帰ってきてね」 「しつこいぞ。帰ると言ってる」 「もしまた学校辞めても、いなくなったりしないで」 「……」 「あのままいなくなっちゃいそうだったから、僕はここまで来たんだ」 天音の目をちらりと見て、すぐに伏せる。 「約束だよ」 「ああ」 「目を見て」 「……」 もう一度瞳を見ながらうなずくと、天音はようやく背を向けて搭乗口へと歩いて行った。 子供の頃からわずらわしいことばかりの人生で、あんなゴミゴミした国へ帰りたいとは思わないが、彼だけはそばに居たいと思える唯一の存在であり、自分にとってはある種の安らぎであり救いでもある。 背中が見えなくなるまで見届けると、空港内の滑走路が見渡せる場所までやってきて、ガラス越しに彼の乗り込む飛行機を見た。離陸の時間になり、車輪がゆっくりと滑り出す。U字を描いて機体を進行方向へ向けると、徐々に加速度が増していき、ガラス越しでもけたたましいエンジン音が響き渡る。そして左右にわずかに翼を揺らすと機首を上げ、ふわりと浮上するとぐんぐんと一直線に雲を目指し、北に向けて飛び去って行った。 海峡を渡る船を1本逃し、ハルヒコは豆粒になった飛行機をぼんやりと見つめる。そのときふと好きな映画のラストシーンを思い起こし、久しぶりにまたあの世界に没頭したくなった。 "...After that..." 何度も反芻し、耳の穴に染み付いたセリフが蘇る。 "my guess is that you will never hear from him again" 片目を閉じ、雲の中に消えようとする飛行機を指でつまんでみる。 "……The greatest trick the devil ever pulled was convincing the world he did not exist" 指先に乗せてみたり、腹部をツンツンとつつく。 "And like that... " そして機体が雲に突入する直前。頭の中で流れるセリフに従い、右手のひらをそっと丸める。 "he is gone" 最後のセリフと同時に、手の中にフッと息を吹きかけた。すると飛行機は手品のようにたちまち姿を消し、まるで初めから存在していなかったかのように、ハルヒコを置き去りにして空のかなたへと消え去ってしまった。
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